忍者ブログ

ベルSS

ベルサイユのばら 原作の隙間埋め妄想

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

驟雨のあと(3)

昨日産声を上げたばかりだと言うのに、『国民議会(アッサンブレ・ナシオナル)』は、走り出していた。議会にはいくつかの専門委員会が創設された。議員達は立法権を手に入れ、自らの権力で自らの生活を支配する事を望んでいるのだ。だが、その流れは決して1つの方向を向いているわけではなかった。議場ではそれぞれの主張がぶつかりあい、興奮した議員達をまとめる為に、議長バイイは奮闘していた。

議場を警護する我々にも、この国を変えていこうとする彼らの熱気がひしひしと伝わってくる。議場を取り巻く人々も、熱に浮かされたように、声高に議論を戦わせていた。譲り合えない主張に、いざこざが起きる。小さな火種が、どんな大火事を起こすかわからない。隊員達の報告を受けながら、油断なく配置を変えていく。今日もまた、張り詰めた一日が暮れていく。


「着くまで横になったらどうだ?俺は御者台に乗っていくから。」

「何を言うんだ。お前も疲れたろう。頭が冴えて、どうせ眠れん。御者台で居眠りをされて、転げ落ちられでもしたら困るからな。」

私を休ませようと気遣うお前も、疲れていることはわかっている。近頃は席につけばすぐにうつむき、目を閉じてしまう。今日も互いにいつもの位置で、黙り込む。

時折乾いた咳がでた。胸が軋むように痛み、息苦しさを感じて衿の留め金をはずした。ふと、昨夜の夢が脳裏に浮かんだ。首筋をそっとなで下ろされた感覚が鮮明に蘇り、一層息がつまる。あれは夢のはずだ。あのように触れられたことなどありはしない。なのに、私はあの指先が誰のものなのかを知っている。

私はお前に触れて欲しいのだろうか。

出会った日、髪に絡んだ葉や花びらを、お前は優しくとってくれた。繋いだ手は暖かくて、この手があれば、どこまでも走れる気がした。

お前に触れたい。

手を差し出せば、お前はきっと冷たい私の指先を暖めてくれるだろう。だが、その先は・・・?


就寝の支度を手伝ってくれた侍女が下がり、私は1人部屋に残される。頭の芯が錐で突かれるように痛んでいる。眠らなければ、明日の仕事に障ると分かっていても、張り詰め過ぎた神経は、休むことを忘れてしまったかのようだ。今夜もブランデーに助けを求めた。深い琥珀色の液は、喉を、食道を、焼きながら胃の腑へと落ちていく。

丸く膨らんだグラスを揺らし、熟成された香りをゆっくりと楽しむのが好きだった。あるものは花の香りが、またあるものは、深い森にも似た香りがした。今は、香りを楽しむ余裕もなく、ただその強い酒精の力にすがりたい。

目前で歴史の歯車がぎしぎしと悲鳴のような音を立てて動き出している。

黄金の装飾、温室で育てられた色鮮やかな花々、贅を尽くした食卓、手技の精緻を極めた衣装、それらの後ろには、物言わぬ人びとがいる。

自らの青い血を信じ、百年一日のごとく過ごしてきた貴族達の、甘美で怠惰な世界は、終わろうとしている。

青い血を持つと言われながら、私は毎月赤い血を流す。貴族であっても、女達に人生を選ぶ機会は与えられない。女であることを封じられたからこそ、自らの人生を選ぶ機会を与えられたのだ。男であっても、生まれた場所や身分に縛りつけられる。誰でもがありのままに、自らの人生を選びとれる社会は、夢でしかないのだろうか。

長い圧政に苦しみ、ため込まれてきた人々の不満は、不気味なまでに膨れあがり、突破口を求めている。人間らしく暮らしたいという人々の叫びを、どうして無視できよう。

私は、今までの自分と来るべき日にそうありたいと願う自分との間で、立ち竦む。光明と絶望が瞬時に入れ替わる。人間の理性と英知を信じたい。だが、一方で私の中にある、矛盾や恐れ、そして、誰かに甘え癒されたいという願いや・・・。感情は容易く揺れ動き、時には自らを滅ぼす事さえ願ってしまう。私は弱い人間なのだ。

嵐がやってくる。予兆はすでに確信へとかわった。いつその日がくるのか、来るべきその日、私が身を置く場所はどこなのか。遠からず、時代のうねりの前に、全てが押し流されていくだろう。私は、その流れに逆らえない。いや、進んで身を投じてしまうに違いない・・・。

強い酒精が私の昂り切った神経を、ゆっくりとほぐしていく。眠らなければ・・・。ぜんまいが切れた自動人形のように、私は寝台に倒れ込み、半ばもがくように布団へともぐり込んだ。




太陽神が御す炎の馬車が西に姿を消す頃、私は銀の舟に乗りこみ天空へとこぎ出す。私が司るのは夜の世界。月の光を受け、下界の全てが深い眠りへと誘われる。

藍色の空に淡い色の雲がかかっていた。雲の縁が銀色に光っている。ゆるゆるとした雲の流れに、地面に落ちる月光が動いていく。

灌木がまばらに生える山の斜面に、赤く光るものが見えた。舟を寄せて目を凝らすと、小さな焚火が熾され、周囲には羊達が互いに頭を寄せ合い眠っていた。

さては里へ帰り損ねた羊飼いが、野宿でもしているのだろうか。さらに舟を寄せると、はたして焚火のそばにある岩に、もたれて眠る羊飼いの姿があった。遠目にもまだ若く、寝姿も慎ましく美しげにみえた。

下界の生き物たちの安らかな眠りを守るため、毎夜天空を一人舟で進む私は、内気で孤独だった。未だ恋も知らず、身も清いままだった。


舟をいっそう近く寄せると、若者の姿がはっきりとしてきた。近づくほどに彼の美しさが明らかになり、もっと良く見てみたいという気持ちが押さえられなくなった。私が発する光は眠りを深くする。羊飼いが目覚める心配はなかった。それが、私を大胆にさせた。

舟を地面すれすれまでおろし、私は下界へと降り立った。焚火の明かりを目指し、歩を進める。斜面を覆う柔らかな草が足裏をくすぐり、胸が不思議なほど高鳴っていった。眠る羊の群の間を縫うようにすすみ、ついに若者のそばに立った。はっきりとその姿を捉えた時、何かが私の目の中ではじけるような衝撃を感じた。

深い眠りに落ちているのだろう。質素な毛織りのマントははだけて裸の胸が半ば露わになっていた。健やかな腕も脚も、深い眠りを表すよう、草の上に柔らかに投げ出されていた。その顔立ちはと言えば、今まで見た事の無いほど好ましく麗しいものだった。秀でた額から鼻筋が通り、柔らかい寝息を漏らす唇は、優しげな微笑を湛えていた。男らしく形の良い眉の下には、引き締まった頬に濃い陰を落とす睫毛があった。柔らかく頭を覆う漆黒の巻毛から、彼の瞳の色も同じであろうと想像したが、瞼は閉ざされ瞳の色を見るを叶わない。それが酷く残念に思えた。

私は若者の隣に座り、思うままに若者の寝顔を眺めた。見れば見るほど、この若者の美しさに魅かれ、思わず肩にかかるほどの長さの巻毛に手を伸ばし、そっと梳き下ろした。それは柔らかくしっとりと指に絡みついた。顔に掛ったひと房をかき揚げ、頬にそっと触れると、私のそれとは違う不思議な感触に指が震えた。意思を宿す頤をなぞり、静かな寝息を漏らす唇に親指を滑らすと、暖かく湿った息がかかり、胸の鼓動は一層高くなった。

引き寄せられるように顔を寄せ、若者の唇に己が唇を重ねた。今まで感じた事の無い甘いうずきが体の奥底に湧き上がってくる。肌蹴た左胸にそっと掌を当てると、暖かな体温が手の平から伝わってくる。肌に密着させたま掌を滑られれば、弛緩した体は柔らかだが、皮膚の下には目を覚ませばとたんに固くなるだろう筋肉や、逞しい骨格がある事が明らかだった。

私は若者の胸に身を持たせかけた。胸に触れた耳に、若者の鼓動が響く。規則正しく脈打つ鼓動に聞き入った。いつしか若者の鼓動と己の鼓動が同調し、1つのものとなっていく。己の存在が、若者を深い眠りに留めている。それなのに、若者の目覚めを願い、今は力なく投げ出された腕に力が戻り、強く抱きしめられたいと望む。微笑を浮かべるこの柔らかな唇は、なぜ私の唇を求めてくれないのだろうと、切なさが胸にこみ上げる。

いつしか私の瞳から涙が溢れ出て、若者の胸を濡らしていた。見上げた若者の瞳は閉じられたままだった。

東の空が僅かに光の気配宿し始める。再び世界に目覚めの時がやってくる。私は後ろ髪を引かれる思いで、若者の傍を離れ、銀の舟にとび乗った。舟はみるみる内に空高く舞い上がり、若者の姿は小さくなり、消えていった。


私は自分の嗚咽で目を覚ました。眦から滴る涙で、鬢が濡れていた。目を開けると、寝台に掛る天蓋布の縁飾りがゆがんで見えた。

夢の中の若者は、幼なじみそのままの姿だった。古の女神と彼女が愛した羊飼いの青年の物語に、私は迷い込んでしまったのだろうか。女神の孤独も愛への餓えも、私のものだった。彼を飽かず眺め、自ら彼の唇を求めた。柔らかな唇に触れ、しっとりと艶やかな黒髪を指で弄んだ。はだけた素肌の胸に掌を這わせ、暖かな胸に自ら身をもたせかけた。触れた肌の温もりに、時間が過ぎる事もわすれ、このまま二人で石にもなって、千年の眠りにつきたいとさえおもったのは、この私だ。

あの夜のように、息ができないほどに抱きしめられたいと願うのはなぜだろう?熱い吐息を頬に感じ、暖かな唇に私の唇を求められたいと思うのは、何故だろう・・・?

体の奥底で、何かが生まれようとしている。私は、それを恐ろしく思う。私自身の内にあり、私自身が知ろうとしなかったもの・・・。溢れだしそうな何か。

甘く、苦く、そして、切なく心の中をかき回す、このざわめきは、一体何なんだ・・・?

教えてほしい・・・、お前はきっと知っているのだろう?

この胸に生まれたものの名前を・・・・。


拍手

PR

驟雨のあと(2)

やがて彼が運んできたのは、実にまっとうな味わいのものだった。お前は私のように無粋じゃない。様々なハーブとスパイスを調合し、熟成させた修道院生まれのリキュールは、暖かいミルクに酒精が和らげられ、滋味豊かな香りと蜂蜜の甘さと共に、胃の腑にするりと落ちて行く。

木桶に張られた湯に、アンリエッタがジュニパーベリーとサイプレスのオイルを数滴たらすと、森の香りが立ち上った。脹脛まで暖かい湯に浸しながら、もつれた髪を梳いてもらう。ばあやが倒れて以来、アンリエッタがすっかり私の身の回りの世話係となっていた。ばあやが母親代わりであったとすれば、10ばかり年上の彼女は、姉のような存在だった。思えば、決然と幼い私に本当の性別を教えてくれたのは、彼女だったのだ。

「御髪が伸びましたね。そろそろ少し毛先を整えた方がようございますわね。いつ梳かせていただいても、本当に見事な御髪・・・。」

梳いた髪を整えながら、鏡の中でアンリエッタがゆったりと頬笑みを浮かべている。夜更けの帰宅に関わらず、嫌な顔一つせず世話を焼いてくれる。優しい彼女の手に触れられる心地良さに、次第に緊張が解かれていく。

「ああ、長く伸びすぎたな・・・。うっとおしいから、短く切ってしまおうか。動くにじゃまだが、髪を結わくのも好きじゃない。」

「切るなんてとんでもない。ばあやさんが悲しみますわ。いいえ、ばあやさんだけでなく、私も、アンドレも。」

「ばあややアンリエッタはともかく、アンドレは私の髪がどうであろうと気にもすまい。いつだったかな・・・、私の髪の事をほったらかしで好き勝手な方向を向いていると奴は言ったではないか。」

「そんな事はございませんよ。アンドレは子供の頃から、オスカル様の御髪を本当に褒めてばかり。それに、『長い髪は女の誉れ』と言うではありませんか。せっかくの美しい御髪でございますもの、どうぞこのままに。」

「長い髪は女の誉れか・・・、私にその言葉が相応しいとはとても思えんが、アンリエッタがこの髪を美しいと言ってくれるなら、切らずにおこう。」

慈愛深い侍女は、さりげない言葉で女性としての私を勇気づけてくれる。ありのままの私でも、女性として認めてよいのだと。

湯に温められて軽くなった足を拭ってもらい、夜着に着替えながら私はふと自問する。

私は、何故髪を伸ばしてきたのだろう・・・?

髪を伸ばさねばならぬ理由は何1つなかった。気がつけば、いつしか髪は背を覆うほどに長くなっていたのだ。私は、女でありたかったのだろうか?アンリエッタとかわした言葉は、私に不思議な感慨を与えた。






ここはどこだろう。あたりに漂う噎せるような甘い花の香りは、地面から立ち上る微かな土の匂いを含んでいる。夏の陽を浴びた薔薇の葉陰の草いきれにも似た熱が、私を包んでいる。体はいつの間にか、力強い腕に抱き取られていた。

夏の草原を音も無く吹き分ける風のように、優しい指が私の髪を梳いている。疲れ切った私は、目を開ける事が出来ない。その指先は暖かく、地肌に触れられる度に少しずつ疲れが取り去られ、体が軽くなっていくように感じた。誰だろう・・・?私はこの指先を確かに知っている。だが、目をあけて確かめる事ができない。

やがて指先は髪を梳くに飽いたのか、そっと私の頬に降りてくる。軽く曲げられた指の背が、何度も私の頬を撫でていく。指は頬から顎をなぞり、そして、親指がゆっくりとくちびるを往復する。くすぐったくて思わずくちびるを開くと、指先が私の下唇を僅かにめくる。指先ではない、なにか暖かく柔らかなものが、ためらいがちに触れてくる。最初は羽のように軽く、二度目は問いかけるように、そして、三度目はすうようにしっとりと私のくちびるをおしつつんだ。熱く濡れた何かが、私のくちびるを割ってしのびこんでくる。迎え入れるべきなのか、拒絶すべきなのか、私の逡巡を見透かしたかのように、それはあっさりと離れて行った。

指先は耳の下のくぼみから頤をなぞって行く。思わず反らせた首を指先は優しく撫でおろし、暖かく湿った息を洩らすくちびるが押し当てられた。そうだ。これはくちびるだ。記憶の隅に無理矢理押し込めていたもの。あの時の驚きと戸惑いを今は不思議と感じない。むしろ心地よい。

これはゼフィロスの吐息だろうか。私の中にある種が膨らんで行くのを感じる。雨の滴と豊穣の風を受け、体の芯が脈打ち始め、萌え出た芽は、固い殻を突き破る。つま先から、指先から、芽は蔓となり、葉となって、ついには皮膚を突き破って伸びて行く。私の体はいつしかつる草と化し、傍らにある大樹の幹に絡みついていく。樹の幹は逞しく、私がどんなに葉を茂らそうとも、覆い尽くす事ができなかった。やがて私は覆い尽くす事をあきらめた。幹に絡みついたまま、陽の光を浴び、風に吹かれ、雨に濡れた。

時が過ぎ、蔓の先に何か葉ではないものが芽吹いた。それは少しずつ膨らんでいく。やがてそれは淡く色づき、ほころんでいく。

天から暖かな雨が降る。切れた雲間から差しこむ光が、雨粒に反射し、煙るように世界を覆い尽くしていく・・・・。



カーテンを引く気配がした。今日も空は曇っているようだ。瞼越しに感じる光が弱々しい。体はまだ休息を求めている。水を吸った綿のように重く動かない体とは裏腹に、脳は働きはじめ、昨夜の夢の意味を考えだす。夢は人の心を映す鏡と言う。それなら、私の心は何を求めているのだろう・・・。


「お目覚め下さいませ。もうお支度を始めていただきませんと、出仕のお時間が・・・」

起床を促され、顔にかかった髪も払わず起き上がる。寝台の縁に腰を下ろしたまま、しばし体が目覚めてくるのを待つ。

疲労が日々蓄積されていくのがわかる。できる事なら、すべてを投げ出して休みたいと思う。だが、一方で私が背負うべき責任を思うと、休むことなどできはしないのだ。兵士たちにも、兵士たちが養う家族にも、私には責任が有る。

ジャルジェ家に対する責任と、司令官としての責任と、どちらかを選ばねならない時がやがて来るだろう。四肢を馬につながれ、引き裂かれるような痛みが、心を苛む。

「お酒はいい加減およし下さいませ。ちゃんとお食事を召し上がらねばいけませんよ。コルセットの合わせがほら、こんなに緩んで。」

夜着を脱ぎ、薄いリネンの肌着をつける。背後からコルセットを当ててくれたアンリエッタが咎めるように言った。

「おお、怖い。アンリエッタはばあやの代わりを見事に果たしているね。心配はいらないよ。十分に食べているさ。私のコルセットは体の線を消す為のものだもの、元から緩いじゃないか。貴婦人たちは、コルセットで締めあげて細腰を競っているのだろう?私も女なのだから、もっと締めても良いのではないか?」

「細腰を競われたいなら、ローブをお召し下さいませ。今すぐお持ちして、コルセットを息がとまるほど強く締めあげて差しあげますわ。」

冗談めかした言葉に、おもわぬ反撃を喰らい、私は大人しく黙って着せかけられる服を身につけた。

「お疲れなのでございましょう?このところ咳が出ていらっしゃいますし、お顔の色もよろしくございません。ラソンヌ先生に一度診ていただいては・・・?」

髪を梳くアンリエッタに言われ気がついた。そういえば、ふとした時に乾いた咳がでている。

「いや、大したことはないだろう。じきになおるさ。ベネディクティンを一口もらおうか。
薬効が期待できるものだろう?」

私には、だるい体を目覚めさせる物が必要だった。

「駄目でございますよ。まずは朝食をきちんとお召し上がりにならなければ。食後に咳に効くお茶を入れて差し上げましょう。」

「では、せめてマルメロ酒を。」

食い下がる私に応えもせずに、アンリエッタは部屋をでて行った。



拍手

驟雨のあと(1)

激しくたたきつけた扉が、背中で震えていた。
心臓は胸郭を打ち破らんほどに、脈打っている。

あれは何だ?
あれは何だ?

唐突に眼前に現れたあのものを、言い表す「言葉」を必死で探した。

どこにも、見つからない・・・!

苛立ちと焦りに、頭に血が上る。

「隊長?」

実直な年上の部下が、怪訝そうに私を見ていた。

「着替えが済んだら私の部屋にきてくれ。早く着替えに行きたまえ。我々には風邪を引いている暇など無いのだからな。」

追い立てるような言葉にも、大佐は訝しげに眉を寄せただけで、律儀に敬礼をして立ち去った。ノブに手をかけたものの、扉を開く勇気が出ない。まだ「あれ」を言い表すべき言葉が見つからない。俯いた私の髪から水が滴り、床の上に黒くしみをつくっていく。

裸体など、見なれたものではないか。軍に身を置けば嫌でも目に入る。庭園にも、広間にも、居室にも、「芸術的裸体」は掃いて捨てるほどにある。「あれ」と「それ」との間の、どこに違いがあると言うのだ?ましてや、幼いころから一緒に育ち、身を寄せ合ってきた仲だ。

雨水を吸い不愉快にまとわりつく衣類から、早く解放されたいのは至極当然のことである。司令官室という場所に対するわきまえが足りていないのは否めないが、雨に濡れた体を拭いていた、ただそれだけのことなのだ。何故、今、私がこんなに動揺しなければいけない? そうだ、私だって早く着がえを済ませねばならない。やらなければいけない仕事は、山ほどもある。

気を取り直して、ノブを回した瞬間だった。扉がいきなり開いた。鼻先を打たれそうになり、慌てて後ろに飛びのいた。

「うわっ!」

開いた扉から間抜けた声を上げた奴が、まろび出る。

「そこを退け!着替える。」

押し通るように部屋に入ると、何か言いたげな奴の鼻先で扉をバタンと閉めてやった。誰もいない司令官室に、窓を叩く雨音だけが響いている。雨脚がまた強くなったようだ。仮眠室にあてている小部屋に入り、鍵を掛けた。サーベルをはずし、水を吸ったサッシュを解いて椅子の背に掛けた。


「くそっ!」

濡れた革ベルトは容易に外れない。冷えて鈍った指先がもどかしい。壁際に置かれた洗面台の上に、フランネルの浴布が用意されていた。髪の滴を拭いとり、軍服を脱いでいく。雨水は下着にまで染みて、肌に貼りつき不快だった。キャビネットの鍵を開け、白い糸でイニシャルが刺繍された薄青のリネンのポーチを取り出す。

着替えの時には、部屋の鍵を掛けるかアンドレをドアの外に立たせる事、一揃えずつポーチにいれた肌着は、鍵付きのキャビネットに必ず入れる事、任官した時からばあやに口うるさく言われ続けた事だった。

ばあやの配慮は、「淑女の慎み」という全く持って見当違いのものだった。だが、ばあやの配慮は期せずして「女性」である事を僅かでも感じさせるものを、他人の目に触れさせぬという目的を果たしてくれていた。女性用というにはあまりにそっけなく、男性用と言うにはあまりに華奢な、私だけの為に作られたコルセットは、どちらともつかない私という存在に良く似ていた。


水を吸った紐は固くしまり緩んでくれない。一段一段をもどかしく緩め、床に脱ぎ落とした。解放された体がほっと息をつく。貼りついていたリネンの下着も脱ぎ去り、肌に残った湿りをふき取っていく。首筋から胸元を拭おうとした手に、重さを感じた。見下ろすと、薄紅に染まった頂をもつ青い静脈を浮かせた白い膨らみがあった。

この胸を見たら、奴も驚くのだろうか?

突然、脳裏に浮かんだこの問いに、先ほど以上の動悸におそわれた。打ち消そうとするほどに目にした光景が浮かんでくる。自分の肌とはまるで違う暖かな象牙色の肌、筋肉に沿って淡い陰を作った広く平らな胸。

直接あの肌に触れたい・・・。

何を私は考えている?そんな事が許されるはずがない。

なぜ、許されない?

たわいのない冗談に叩き、喜びも悲しみも、なんの遠慮もためらいも感じることなく、顔を埋めてかみしめて来た場所ではないか。衣服の隔てがあろうと、なかろうと、なんの違いがある?

自分の意思を無視して湧き上がる感情に翻弄される。


トントン・・・トン

馴染んだリズムのノックの音に、飛び上がった。

「着替えは済んだか?ダグー大佐がお見えだぞ。」

掛けられた言葉に我に返った。浴布を握りしめ上半身裸のままで、私は今、何を考えていた?

雨は相変わらずガラス窓を叩いている。

「すぐに行く。明日の編成について、目を通しておくよう伝えてくれ。」

裏返りそうになる声を必死で押さえこみ、慌てて着替えに取りかかった。


ポーカー・フェイスは得意だが、まさかお前と二人、乗り合わせた馬車の中で、心の中を読まれまいと必死で取りつくろう日が来ようとは、思ってもみなかった。

闇夜を映すばかりのガラス窓に顔を向け、私は黙り込む。斜向かいの席に座るお前も、俯いて目を閉じる。私はガラスに映るお前の姿をじっと見つめる。

頬にかかる黒髪が、馬車の振動にあわせて揺れていた。膝の上に重ねて置かれた手に、思わず目が吸い寄せられる。少し節だった長い指の先にきちんと整えられた爪があった。幼いときから、身繕いを怠るなと厳しくしつけられたお前は、いつも清潔でこざっぱりとしている。穏やかで優しい幼馴染。

振り返れば、私達の関係はもうずいぶんと前から、少しずつ変わり始めていたのだろうか。

私は男として育った。誰も私に女性としての振る舞いを教えてくれる者はおらず、好ましく思う男性に思いを告げる術も知らなかった。男女の愛について描かれた文学にも触れて来たし、戯れの恋に興じる宮廷人達の振る舞いを目の当たりにしてきた。他人の恋愛であれば様々に分析することも、批評することもできた。男性が女性を、女性が男性を愛するという事の真実とはいかなるものか・・・。言葉巧みに語る事はできても、恋の主体者として行動しようとするとき、私の心と体は、性の狭間で引き裂かれ、立ちすくんでしまう。

私達は何と似ている事だろう。私の中の女がフェルゼンを求めていたように、お前の中の男が、私を求めていたなんて・・・。私が女性として愛される事を望んでいる事を知ったフェルゼンは、もう会う事はできないと、私に別れを告げた。それが、彼の私に対する誠実の証だったのだ。だが、私はフェルゼンと同じ事はできなかった。お前と別れるなんて、お前と離れて生きる事なんて、考える事すらできなかった。だから、私は自身の中にあった女を無視する事に決めた。そして、お前の中にある男も。なんという欺瞞だろうか。


軍服を纏い、荒っぽい訓練に身を投じても、身についた柔らかな物腰や、他者への篤い配慮がお前から失われる事はない。骨の髄まで染み込んだ習慣と、人となりは容易に変わるものではないのだ。私の結婚話が原因で暗い影を背負ったような時でも、髭はきれいに剃られ、爪先の手入れがおろそかになることもなかった。それだからこそ、言動の荒みが痛々しかった。体に染み込んだ習慣に規定された行動と、抑えがたい衝動に突き動かされた行動とのちぐはぐさが、哀しかった。

私は嫡男として育ち、軍人になるべく養育され、そして、軍人として生きてきた。ジャルジェ家の末長い繁栄を担うべき立場で在りながら、自分自身をその責務の前に投げ出す事が出来ない。なぜなら、私がその責務を全うしようとすれば、お前を深く傷つけ悲しませる事になるからだ。なによりも、その事が辛い。

思い詰め、苦しみぬき、それでも、お前は私が生きる事を望んでくれた。私の傍で生きる事を選んでくれた。お前の存在が自分にとって唯一無二のものである事を、今痛いほどに思い知らされている。人の存在は儚く、その心は不条理に満ちている。


つい数日前、一生どこへも嫁ぐつもりがないとお前に告げた。幼いころに薔薇の葉蔭で何度も交した約束の通り、私はお前と寄り添いながら生きて行く事を固く心に決めたからだ。今日もお前が私の傍らに在るのは、当たり前なのではなく、お前自身が強い意思を持って、私の傍に在り続けてくれたからだ。お前の献身と愛情を、私はなんと無自覚にむさぼって来た事だろう。失いかけて初めて、自身の奥深くにずっと在り続けたお前への思いに気がついた。

石畳を走る車輪の音に混じって、規則的な息使いが聞こえる。柔らかな微笑みを浮かべたようなくちびるは、若くして天に召された母親譲りと言っていた。何度そのくちびるが私の額や頬に押しあてられてきた事だろう。そして、私のくちびるもお前の額や頬の感触を知っている。私達は触れ合うことで、互いの絆を、そこにある生きた存在を確かめ合って来た。血を分けた姉妹よりも近く近く寄り添いながら生きてきた。

もしも、お前が再び私を女性として求めたら、私は果たして応える事ができるのか、応えて良いものなのか、わからないでいる。自らが女性の肉体を持つ者である事を、やっと受け入れられるようになったばかりの私は、お前が男性であるという現実に驚き戸惑うばかりだ。今日だって、そうなのだ。頭ではお前が男性だと理解している、だが感情がついていけない・・・。

馬車は速度を落とし、街道から屋敷へと続く道にゆっくりと曲がっていく。軋んだスプリングの音に、お前ははっと顔を上げた。車の振動に誘われて、うたた寝ていた事に気がついて、気まずそうに眇めた目元に淡いカンテラの光が落ちて、ただ一つの黒曜石の瞳はきらりと光った。

馬車を降り見上げると、低い雲がかかる空は月も星も無く、黒々と深い闇ばかり。律儀な執事の出迎えを受け、燭台を掲げたお前に導かれた私は、明かりが落とされた大階段を上っていく。揺れる炎が、二つ並んだ影を壁に映し出す。私の影を呑み込むほどの、お前の影の大きさに思わず息を飲む。心臓の音が耳の奥で鳴っている。なぜ・・・だ?

「今日は雨にも濡れたし、疲れただろう。アンリエッタに足湯の支度を頼んでおくよ。べネディクティンを熱いミルクで割って持って来よう。午後、嫌な咳も出ていた。用心した方がいい。」

そう言いながら、お前は部屋の蝋燭を灯して回る。私は軍服の上着を脱いでソファの上に放り出し、カウチに積まれたクッションに乱暴に身を投げ出した。

「なんということだ。一日職務に励んだというのに、好きな酒の一杯も飲ませてもらえないのか!」

不機嫌につぶやいて見る。

「お前の場合は、寝酒が一杯じゃ済まないのが問題なんだ。」

ソファから軍服を拾いあげたお前は、眉を下げて苦笑する、

「昨晩封を開けたブランデーの瓶を一晩で半分も飲んでしまったそうじゃないか。あまり皆を心配させては良くなかろう?」

次々と起こる事件が私の神経を過敏にさせている。減らないどころか、いや増す酒量に屋敷の者たちが気を揉んでいる。それは重々わかっていた。「オー・ド・ヴィ(命の水)」を飲み、ささくれた神経を麻痺でもさせなければ、焼き切れてしまいそうになる。胸に溜まった澱を洗いざらいぶちまけて、お前の胸に身を預け、くつろぐ事が出来たなら・・・・。何の斟酌もなくお前に甘えていた昔が、酷く懐かしい。

「では、熱いミルクをベネディクティンで割ってくれ。」

「そのレシピは邪道だな。味の保証ができない。」

「では、味の保証できる範囲で。」

埒も無い言葉の応酬にお前は、困ったように肩をすくめて見せて、部屋を出て行った。

拍手

プロフィール

HN:
DNA
性別:
非公開