お前こそが、神に分かたれた私の半身。お前の腕の中こそが、約束の地!
広げられた腕に飛び込んだ。骨が軋むほど強く抱きしめられて、薄いシャツしか纏わぬお前の身体の熱に包まれる。すがるように胸に顔をうずめた。とめどなく流れ落ちる涙が、白い亜麻のシャツに染みて行く。全てが懐かしかった。汗の香りも、陽に焼けた肌に落ちる髪の影も、何もかもが・・・!
胸にあてた耳に激しく打つ鼓動が聞こえているのに、お前の呼吸は不自然なほどゆっくりと繰り返されていた。出会いの日、髪に絡んだ花弁や葉を取り除いてくれた時と同じように、お前の指先が臆病とも思えるほどに優しく髪をまさぐり梳き下ろす。指先が触れる度に、新たな涙があふれ出し、私を覆っていた頑ななものが溶け落ちていく。
やがて指先はそっと私の頬に降りてくる。軽く曲げられた指の背が、泣きやまぬ幼子をあやす様に、何度も頬を優しく撫でていく。
いつか見た夢と同じ・・・。私は、もうずっと望んでいたのだ。お前に触れてほしい・・・、もっと、お前に触れたい・・・と・・・。
暖かな掌がそっと私の頬を包みこむ。どうしてお前には、私の心の声が聞こえるのだろう?促されるままに顔を上げれば、そこにお前の微笑みがあった。ただ一つになってしまった黒い瞳に、涙に濡れた私の顔が小さく映っていた。私の瞳の中に、お前も小さく映る自身の顔を見てくれているのだろうか・・・。
「愛している・・・。生まれてきて、良かった。」
それは、余りに密やかな声。私にだけ聞こえる、いや、もしかしたら、それは私の耳にではなく、心に直接流れ込んできたお前の思いだったのかもしれない。
出会いの日から、私達が重ねて来た長い時間は、とても言葉では言い尽くせない。お前と私だけのきらきらと輝く、宝石のような幼い日々が鮮やかに蘇る。互いがそこにいる、ただそれだけで心満ち足りた。
伏せた睫毛に真珠のような涙を凝らせて、微笑むお前は何と美しいのだろう。男らしく通った鼻筋も、意思を秘めた形の良い顎も、少し女性的なくちびるも・・・。お前の全てが、私の心を捉えて離さない。
息がかかるほどにお前の顔が近く寄せられ、もう目を開けていられなくなる・・・。
暖かな唇が触れた途端、身体が浮き上がる。力強い腕が私を一層深く抱きしめていた。
私知っている唇は熱っぽくて弾力があって
吸うようにしっとりと私の唇を押し包み忍び込み・・
私の知っているくちづけは・・・
息を継ぐ間も惜しむほど、互いのくちびるを求めあう。胸の奥底から愛おしさが湧きあがり、震えるほどの喜びが全身を包んでいく。
生まれてきて良かった・・・!!
長い旅路の果てに故郷にたどり着いた巡礼者は、全てを赦し迎え入れてくれる懐かしい故郷の光に抱かれて、気づくのだろう。苦難の旅路が、自らの魂を清め、真実を見いだす為の修練の場であったのだと・・・。
愛している・・・。
言葉にして告げる事を躊躇うほどに、深く、強く、その全てを・・・!
互いの乱れた息づかいと身じろぐ衣擦れの音だけが聞こえる静けさの中に、時計の鉦が突然割ってはいった。お前の腕の中で、ただその温もりに全てを委ね、安らえたら・・・。そんな甘えを諫めるように、鉦の音は冷たく鳴り続けた。
くちづけの余韻は容易に去ろうとしない。このまま、お前の腕の中に抱かれていたかった。だが、こうしている間にも、第一班12名の兵士達は牢のなかで不安と戦っているだろう。フランソワが、ジャンが、泣きながら私を呼んでいた。アランが、歯を食いしばり、まっすぐに私を見つめていた。命をかけて、議員達に銃を向けることを拒んだ彼らに、助けてやると私は誓った。彼らが処刑される事になれば、私は一人おめおめと生き残る事など出来はしない。私の手に、彼らの命は委ねられているも同然なのだ。
お前の腕のなかで満たされていたいという思いと、指揮官として部下達を救いたいという思いとが、心の中で激しく鬩ぎ合う。
私は、彼らを見捨てることなど出来ない・・・。しかし、私一人で何ができようか・・・。
「アンドレ、見つからないように馬車の用意をしてくれ。ロザリーのところへ行く。」
「この暗闇を?!」
すまない・・・、と心の中で詫びては見たが、口を突いて出たのは、有無を言わさぬ命令口調。
「暗闇だから!時間がないんだ、ベルナールに会わねばならん。アベイ牢獄からアラン達を救い出すのだ。急いでくれ!」
彼らの処刑までどれだけの時間が残されているのか・・・、明日か?明後日か?それとも一週間か・・・?
私の焦りを感じ取ったのだろう。
「わ・・、わかった。」
戸惑いながらも、お前はすぐに馬車を出す事を承知してくれた。床に落ちてしまっていた上着を拾い上げ、肩にひょいとひっかけて、お前は何事もなかったように歩き出す。
不思議だ・・・。さっきまであれほど狂おしく抱きしめあい、くちづけを交していたのに・・・。
今は嘘のように平静になって、為すべき次の一手の為に、馬車の支度をお前に命令している自分がいて、当前のようにそれに従うお前がいる。
扉に向かうお前の背中を見て、急に不安になった。私の気持ちはちゃんとお前に届いただろうか・・・?まさか、私の気まぐれだなどと思われていないだろうか・・・?愛していると告げた直後に、月のない新月の夜だというのに、「馬車の用意をしろ、パリに行く」、などと命令する女が、どこの世界にいるだろう?
お前の手がドアノブにかかり、扉が開かれる。
確かめたい・・・、でも、どうやって・・・?
「アンドレ・・・」
呼びとめた声に、お前は扉を開けたまま振り返る。廊下の明かりはすでに最小限に落とされて、扉の向こうは暗闇だった。屋敷の者達はすでにそれぞれの部屋に引きとって、眠りにつく時間なのだ。
思わずお前の傍に駆け寄ったものの、言うべき言葉が見つからない。こういう時、いったい何と言えばいいのだろう。急げと言ったのは、私なのに、呼びとめて、何も言えず・・・。
開いた扉を閉め直し、見上げる私の瞳を、黙ったままのお前が見下ろす。ただそれだけなのに、身体が熱くなる。お前のほころんだ口元に目が吸い寄せられてしまうのは、なぜだろう。その事をお前に気付かれたくなくて・・・、目を伏せてしまう自分がもどかしい。
「オスカル・・・?」
握りしめた左手に、そっとお前の左手が重ねられた。誘われるままに拳を緩めれば、大きな手が私の手をしっかりと握りしめる。お前は軽くついばむようなくちづけを二度、そして、しっとりと包むようなくちづけを与えてくれた。まるで砂糖菓子をねだってぐずる子をあしらう様な扱いだ。お前のくちづけは、確かに砂糖菓子よりもなお甘く、先ほどの不安はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「すぐにしたくをする。おりてこい。」
いつもと変わらぬ気安い言葉を残して、お前は暗い廊下へと姿を消した。扉に背中をもたせかけ、私はほうっとひとつ息を吐く。別れ際に交わしたくちづけの名残を求めてそっと指でなぞれば、胸の鼓動は静まるどころか、更に高まる。抱きしめられた体、包み込まれた頬、握りしめられた手・・・。お前が触れた場所が、お前を求めてうずいている。
今ならわかる。
あの日、驟雨に濡れそぼった体を拭くお前を見たとき、なぜあんなに心乱れたのか。
幼馴染みでも、親友でも、兄でもない。
お前が紛れもなく美しい異性の肉体をもった、人なのだと思い知らされた。
やっと気付いた。自身が女である事も、お前が男である事も、全て自然に受け入れればよいのだと。
「オスカルは、オスカルだろ。それでいいじゃないか!」
いつだって性別の狭間で揺れる私の心を、お前は支え続けてくれた。
お前が傍にいてくれたから、私は、私のままに生きてこられた。
冷たく光る剣を腰に佩び、硝煙の臭いが染み付いた軍服を身にまとっていようとも、私は、女だ。
お前を愛し、お前に愛されている、1人の女、それが、私。
今夜は新月。
空は晴れても、月は無い。
だが、月は再び必ず満ちてゆく。
それが、自然の営みなのだ。
心が命じるままに、為すべき事を全力で為そう。
お前と一緒なら、もう、何も恐れるものはない・・・!
2013/11/30
FIN
PR