昨日産声を上げたばかりだと言うのに、『国民議会(アッサンブレ・ナシオナル)』は、走り出していた。議会にはいくつかの専門委員会が創設された。議員達は立法権を手に入れ、自らの権力で自らの生活を支配する事を望んでいるのだ。だが、その流れは決して1つの方向を向いているわけではなかった。議場ではそれぞれの主張がぶつかりあい、興奮した議員達をまとめる為に、議長バイイは奮闘していた。
議場を警護する我々にも、この国を変えていこうとする彼らの熱気がひしひしと伝わってくる。議場を取り巻く人々も、熱に浮かされたように、声高に議論を戦わせていた。譲り合えない主張に、いざこざが起きる。小さな火種が、どんな大火事を起こすかわからない。隊員達の報告を受けながら、油断なく配置を変えていく。今日もまた、張り詰めた一日が暮れていく。
「着くまで横になったらどうだ?俺は御者台に乗っていくから。」
「何を言うんだ。お前も疲れたろう。頭が冴えて、どうせ眠れん。御者台で居眠りをされて、転げ落ちられでもしたら困るからな。」
私を休ませようと気遣うお前も、疲れていることはわかっている。近頃は席につけばすぐにうつむき、目を閉じてしまう。今日も互いにいつもの位置で、黙り込む。
時折乾いた咳がでた。胸が軋むように痛み、息苦しさを感じて衿の留め金をはずした。ふと、昨夜の夢が脳裏に浮かんだ。首筋をそっとなで下ろされた感覚が鮮明に蘇り、一層息がつまる。あれは夢のはずだ。あのように触れられたことなどありはしない。なのに、私はあの指先が誰のものなのかを知っている。
私はお前に触れて欲しいのだろうか。
出会った日、髪に絡んだ葉や花びらを、お前は優しくとってくれた。繋いだ手は暖かくて、この手があれば、どこまでも走れる気がした。
お前に触れたい。
手を差し出せば、お前はきっと冷たい私の指先を暖めてくれるだろう。だが、その先は・・・?
就寝の支度を手伝ってくれた侍女が下がり、私は1人部屋に残される。頭の芯が錐で突かれるように痛んでいる。眠らなければ、明日の仕事に障ると分かっていても、張り詰め過ぎた神経は、休むことを忘れてしまったかのようだ。今夜もブランデーに助けを求めた。深い
琥珀色の液は、喉を、食道を、焼きながら胃の腑へと落ちていく。丸く膨らんだグラスを揺らし、熟成された香りをゆっくりと楽しむのが好きだった。あるものは花の香りが、またあるものは、深い森にも似た香りがした。今は、香りを楽しむ余裕もなく、ただその強い酒精の力にすがりたい。
目前で歴史の歯車がぎしぎしと悲鳴のような音を立てて動き出している。
黄金の装飾、温室で育てられた色鮮やかな花々、贅を尽くした食卓、手技の精緻を極めた衣装、それらの後ろには、物言わぬ人びとがいる。
自らの青い血を信じ、百年一日のごとく過ごしてきた貴族達の、甘美で怠惰な世界は、終わろうとしている。
青い血を持つと言われながら、私は毎月赤い血を流す。貴族であっても、女達に人生を選ぶ機会は与えられない。女であることを封じられたからこそ、自らの人生を選ぶ機会を与えられたのだ。男であっても、生まれた場所や身分に縛りつけられる。誰でもがありのままに、自らの人生を選びとれる社会は、夢でしかないのだろうか。
長い圧政に苦しみ、ため込まれてきた人々の不満は、不気味なまでに膨れあがり、突破口を求めている。人間らしく暮らしたいという人々の叫びを、どうして無視できよう。
私は、今までの自分と来るべき日にそうありたいと願う自分との間で、立ち竦む。光明と絶望が瞬時に入れ替わる。人間の理性と英知を信じたい。だが、一方で私の中にある、矛盾や恐れ、そして、誰かに甘え癒されたいという願いや・・・。感情は容易く揺れ動き、時には自らを滅ぼす事さえ願ってしまう。私は弱い人間なのだ。
嵐がやってくる。予兆はすでに確信へとかわった。いつその日がくるのか、来るべきその日、私が身を置く場所はどこなのか。遠からず、時代のうねりの前に、全てが押し流されていくだろう。私は、その流れに逆らえない。いや、進んで身を投じてしまうに違いない・・・。
強い酒精が私の昂り切った神経を、ゆっくりとほぐしていく。眠らなければ・・・。ぜんまいが切れた自動人形のように、私は寝台に倒れ込み、半ばもがくように布団へともぐり込んだ。
。
太陽神が御す炎の馬車が西に姿を消す頃、私は銀の舟に乗りこみ天空へとこぎ出す。私が司るのは夜の世界。月の光を受け、下界の全てが深い眠りへと誘われる。
藍色の空に淡い色の雲がかかっていた。雲の縁が銀色に光っている。ゆるゆるとした雲の流れに、地面に落ちる月光が動いていく。
灌木がまばらに生える山の斜面に、赤く光るものが見えた。舟を寄せて目を凝らすと、小さな焚火が熾され、周囲には羊達が互いに頭を寄せ合い眠っていた。
さては里へ帰り損ねた羊飼いが、野宿でもしているのだろうか。さらに舟を寄せると、はたして焚火のそばにある岩に、もたれて眠る羊飼いの姿があった。遠目にもまだ若く、寝姿も慎ましく美しげにみえた。
下界の生き物たちの安らかな眠りを守るため、毎夜天空を一人舟で進む私は、内気で孤独だった。未だ恋も知らず、身も清いままだった。
舟をいっそう近く寄せると、若者の姿がはっきりとしてきた。近づくほどに彼の美しさが明らかになり、もっと良く見てみたいという気持ちが押さえられなくなった。私が発する光は眠りを深くする。羊飼いが目覚める心配はなかった。それが、私を大胆にさせた。
舟を地面すれすれまでおろし、私は下界へと降り立った。焚火の明かりを目指し、歩を進める。斜面を覆う柔らかな草が足裏をくすぐり、胸が不思議なほど高鳴っていった。眠る羊の群の間を縫うようにすすみ、ついに若者のそばに立った。はっきりとその姿を捉えた時、何かが私の目の中ではじけるような衝撃を感じた。
深い眠りに落ちているのだろう。質素な毛織りのマントははだけて裸の胸が半ば露わになっていた。健やかな腕も脚も、深い眠りを表すよう、草の上に柔らかに投げ出されていた。その顔立ちはと言えば、今まで見た事の無いほど好ましく麗しいものだった。秀でた額から鼻筋が通り、柔らかい寝息を漏らす唇は、優しげな微笑を湛えていた。男らしく形の良い眉の下には、引き締まった頬に濃い陰を落とす睫毛があった。柔らかく頭を覆う漆黒の巻毛から、彼の瞳の色も同じであろうと想像したが、瞼は閉ざされ瞳の色を見るを叶わない。それが酷く残念に思えた。
私は若者の隣に座り、思うままに若者の寝顔を眺めた。見れば見るほど、この若者の美しさに魅かれ、思わず肩にかかるほどの長さの巻毛に手を伸ばし、そっと梳き下ろした。それは柔らかくしっとりと指に絡みついた。顔に掛ったひと房をかき揚げ、頬にそっと触れると、私のそれとは違う不思議な感触に指が震えた。意思を宿す頤をなぞり、静かな寝息を漏らす唇に親指を滑らすと、暖かく湿った息がかかり、胸の鼓動は一層高くなった。
引き寄せられるように顔を寄せ、若者の唇に己が唇を重ねた。今まで感じた事の無い甘いうずきが体の奥底に湧き上がってくる。肌蹴た左胸にそっと掌を当てると、暖かな体温が手の平から伝わってくる。肌に密着させたま掌を滑られれば、弛緩した体は柔らかだが、皮膚の下には目を覚ませばとたんに固くなるだろう筋肉や、逞しい骨格がある事が明らかだった。
私は若者の胸に身を持たせかけた。胸に触れた耳に、若者の鼓動が響く。規則正しく脈打つ鼓動に聞き入った。いつしか若者の鼓動と己の鼓動が同調し、1つのものとなっていく。己の存在が、若者を深い眠りに留めている。それなのに、若者の目覚めを願い、今は力なく投げ出された腕に力が戻り、強く抱きしめられたいと望む。微笑を浮かべるこの柔らかな唇は、なぜ私の唇を求めてくれないのだろうと、切なさが胸にこみ上げる。
いつしか私の瞳から涙が溢れ出て、若者の胸を濡らしていた。見上げた若者の瞳は閉じられたままだった。
東の空が僅かに光の気配宿し始める。再び世界に目覚めの時がやってくる。私は後ろ髪を引かれる思いで、若者の傍を離れ、銀の舟にとび乗った。舟はみるみる内に空高く舞い上がり、若者の姿は小さくなり、消えていった。
私は自分の嗚咽で目を覚ました。眦から滴る涙で、鬢が濡れていた。目を開けると、寝台に掛る天蓋布の縁飾りがゆがんで見えた。
夢の中の若者は、幼なじみそのままの姿だった。古の女神と彼女が愛した羊飼いの青年の物語に、私は迷い込んでしまったのだろうか。女神の孤独も愛への餓えも、私のものだった。彼を飽かず眺め、自ら彼の唇を求めた。柔らかな唇に触れ、しっとりと艶やかな黒髪を指で弄んだ。はだけた素肌の胸に掌を這わせ、暖かな胸に自ら身をもたせかけた。触れた肌の温もりに、時間が過ぎる事もわすれ、このまま二人で石にもなって、千年の眠りにつきたいとさえおもったのは、この私だ。
あの夜のように、息ができないほどに抱きしめられたいと願うのはなぜだろう?熱い吐息を頬に感じ、暖かな唇に私の唇を求められたいと思うのは、何故だろう・・・?
体の奥底で、何かが生まれようとしている。私は、それを恐ろしく思う。私自身の内にあり、私自身が知ろうとしなかったもの・・・。溢れだしそうな何か。
甘く、苦く、そして、切なく心の中をかき回す、このざわめきは、一体何なんだ・・・?
教えてほしい・・・、お前はきっと知っているのだろう?
この胸に生まれたものの名前を・・・・。
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