時計の鉦の残響が消え、部屋に再び静寂が戻った。
「・・・それが・・・お前の気持ちか・・・」
父の問いに、お前は答えなかった。お前は、気が遠くなるほど長い間、自分の心を隠して来た。いつもそばにいた私にすら気付かせないほど、幾重にも深く、優しい微笑みに隠して。
「ばかめ・・・が・・・」
深い嘆息が父の唇から洩れた。
「・・・はい・・・」
父の言葉に、お前は躊躇うことなくすぐに答える。
私の喜びも悲しみも、全てをお前が受け止めてくれた。お前がいてくれたから、喜びは倍に、悲しみは半分になった。お前は私に喜びを与え、悲しみを背負ってくれた。愚かなのは・・・、お前じゃない。この・・・、私だ。お前の心を知らず、甘え続けて来た、この私だ・・・。
「身分の違いを超えるものがあると思うのか」
低く抑えられた声音だった。
「祈る者」「戦う者」「耕す者」という身分秩序の中で、生きる事を当然としてきた父だった。だが、「男」と「女」という秩序に抗い、女の私を跡取りに育てたのも、また父だ。父は、本当は知っている。人は、皆、身体ひとつで生まれてくる。貴族であろうと、平民であろうと、男と女の命を継ぐものとして人は生まれてくる。
たった一つの魂を宿した、小さくか弱い身体ひとつでこの世に生れ出る、その一点で、人は皆同じだ・・・。巡り合い、魅かれあう魂を止める事なんて、出来はしない。
いつまでも、一緒だよ・・・!
薔薇の葉陰で幾度となく交した約束は、この魂に深く刻まれ、決して消えない・・・。
そうだろう・・・?アンドレ!
「はい・・・」
短く答えたお前の声は、確信に満ちていた。
「貴族の結婚には国王陛下の許可が要る。」
今の社会規範の中で、私に結婚の自由は無い。私がどんなにアンドレを愛そうと、「貴族の娘」である私が正式な婚姻を結ぶ為には、父の許しと国王陛下の許しを得なければならない、それが、この社会の現実なのだ。
「知っています・・・。知っています・・・。結婚など望んではおりません。」
あの夜、骨が軋むほど強く私を抱きしめながら、結婚できるなどと考えていないと、お前は言った。身分差ゆえに、ただ一言、愛を告げる事さえ罪と慄くその苦しみを、あの時の私は理解できなかった。だが、今ならわかる。私も、お前以外を愛せない。この心は誰にも縛る事ができない。こんなにも、お前を愛している。
「ただ・・・ただ・・・私の命など十あってもたりは致しますまいが、なにとぞ・・・、なにとぞオスカルの命と引き換えに私を・・・。」
静かな声だった。父の喉元に突き付けられていた短剣が、ゆっくりと下ろされ、父の右腕は解放された。お前は短剣を鞘に納め、両手を前に組んで完全なる服従の姿勢となった。そして、背後を伺う父の視線を、黙ったまま受け止めていた。
言い知れぬ悲しみが、胸にこみ上げる。私の罪を贖う為に、お前が命を差し出す必要なんかない。私の命とお前の命、どちらも神から授かった、たった一つの命ではないか!命の尊さは同じだ。それなのに、なぜお前はそんなにも自分を蔑む・・・・?本当は、私よりも、父よりも、お前は強いんだ。お前の力を持ってすれば、私達はお前に敵わない。ただ、お前は信じこまされてきただけだ。貴族の「青い血」などありはしない。人の血は、皆赤い。
お前を失ってしまったら、私は生きられない・・・・!
お願いだ、私の為に死ぬなどと言わないでくれ・・・!
私を・・・、ひとりにしないで・・・く・・れ・・・!!
父の視線が私を捉えていた。その瞳には、もう、冷酷な光は無かった。
「お前を殺せば・・・ばあやも生きてはいまい・・・」
深い嘆息をもらした父の顔に、複雑な笑みが浮かんだ。
「知能犯め・・」
この一言が、私に父がこの場を納める唯一の妥協点を見つけてくれた事を教えてくれた。お前もすぐに父の真意がわかったのだろう。蒼ざめこわばっていた顔が、一瞬で安堵に緩んでいく。
父は、深く首を垂れるアンドレと私を残し、扉へと向かって歩き出した。
「オスカル!王后陛下からのお達しだ。軍務証書を取りに宮廷へ伺うように。わかったか!?処分は無しとのお言葉だ。」
扉の前で振り向き様に父から告げられた言葉に、私は驚くしかなかった。処分無し!安堵すると同時に、この身に与えられた王妃様の慈悲深さに、ただ感謝をするばかりだった。
扉が閉まる音がして、部屋には私とお前だけが残された。張り詰めた空気を払うように、お前が深く息を吐く。
息詰まるような緊張が途切れ、水面に浮かぶ板上に立っているかのような揺らぎを覚えた私は、思わずテーブルに手をついた。様々な思考と感情とが、一気に押し寄せる。服を寛げていくお前の気配を背中に感じながら、私は告げるべき言葉を探した。
今日この日を振り返り、私は自身がいかに思い上がった人間であったかを、思い知る。温室の花と揶揄されたのは、当然だったのだ。ジェローデルとの結婚話を破談とした時、私は父に軍神マルスの子として生きると告げた。この身を剣に捧げ、砲弾に捧げ、生涯を武官として生きると心に誓った。父に与えられた道であっても、自らの意思で選び取り、この道を貫き通すのだと覚悟したはずだった・・・。 だが、私の覚悟など、子供の戯言にすぎなかったのだ。
アンドレが止めに入ってくれなければ、私は父に成敗されていただろう。父にとって信条とは、親子の情愛さえ捨て去るほどの強さを持って貫かれるべきものなのだ。私はそれほどの厳しさを、自身に課した事があるだろうか。
己の意思を阻むものであれば、例えその者が大恩ある者であっても、命を奪うという冷酷な決断すら恐れない鋼の心を、お前は持っていた。私は、かつてそのような強い心を、持ちえた事があっただろうか。
私は自身の責任を果たしたいと願いながら、その為に、ただひとつの道を選び、その他全てをその為に切り捨てる事など出来ない。私は「神の子」などではなく・・・、ただの弱い人の子に過ぎない・・・。
どんなに願っても、どんなに望んでも、男にはなれない。この身体も、この心も、本当の男にはなり得ない。
私は・・・・、女だ・・・・。
長い間目をそらし、自分さえも欺き続けて来た。私は弱い人間に過ぎず、お前の支えがあってこそ、生きて来れたのだという事を、はっきりと認めなければいけない。それが私・・・。向き合うべき自身の姿。
だから、告げなければいけない。
お前は何も言わず、私の気配を伺っている。
沈黙を許してくれるその優しさに、私はどれだけ甘えて来たのだろう・・・。
もう、これ以上、自分の心を隠しておくことなんか出来ない。
受け止めてくれるか・・・?こんな弱い私を・・・・。
部屋を去ろうと歩き始めたお前の行く手を、私は腕を伸ばし遮った。
私のいきなりの行動に、お前は驚いたに違いない。すぐ間近で、息を飲む気配がした。この場にお前をとどめる為に、腕を伸ばしたものの、言葉はすぐに出て来ない。
「アンドレ・・・」
助けを求めるように、思わずお前の名を呼んだ。そうだ。私は今までお前の名前を数え切れないほど呼んできた。その名を呼べば、いつも私の側にやってきて、暖かなまなざしで包んでくれた。今この瞬間も、うつむきまともにお前の顔をみられないでいる私を、戸惑いながらも見守ってくれているだろう。
自身で解決できず、波立つ気持ちを荒っぽくぶつけたときも、抑えても抑えても、あふれ出てしまう悲しみに、お前に背を向けて涙を流した時も、お前はいつでも私を信じ、じっと黙って側にいてくれた。だから、私は勇気を出そう。私のあるがままを、告げるのだ。
《続く》
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