兵士たちはうなだれ、黙々と歩いている。引き伸ばされ、今にも消え入りそうな彼らの影が、地面に揺れていた。
「彼らに労いを手配してくれ。そうだな、ほろ酔いになる程度の酒と、何か腹の足しになる物を頼む。」
「ああ、そう言うと思ったから、食堂に用意させてあるよ。抜け出されて、街の酒場でもめ事になったらやっかいだからな。安全管理費って事で伝票をあげるから、決済を頼むよ。辛い仕事をやり遂げたんだ、連中にご褒美を上げてもいいさ。」
同僚たちの背中に注がれる幼馴染の眼差しは、いつも以上の優しさに満ちている。
「ブイエ将軍への報告は、ダグー大佐の采配にお任せして、もう帰ろう。疲れただろう?」
そう言うお前も、酷く疲れた顔をしていた。促されるままに、帰宅の途についた。馬車の中で、互いに言葉を交わす事もなく、俯いている。二人で馬車に乗る時に、お前が斜向かいの席に着くようになったのは、いつの頃からだろう。
子供の頃は、並んで座るのが常だった。心地よい揺れに身を任せ、たわいのないおしゃべりに興じ、頭を寄せ合って眠り込む事もしばしばだった。お前の心地良さそうな寝息を耳元で聞きながら、うつらうつらと舟を漕ぐ。そのひと時が、今思えば私にとっての幸福そのものだった。昔のようになんの衒いもなくお前の隣に座れたらどんなに良いだろう。お前の肩に頭を預け、安らかな寝息と体温を感じながら、馬車の揺れに身を任せる事ができたなら・・・・。
分かっている。これは私の我儘だ。お前からは私に触れてはくれない。あの日お前は神に誓いを立てた。その誓いをお前が破る事などありはしない。私は、まっすぐにお前を見つめる事ができないでいる。暗く小さなガラス窓に映るお前の姿を見るだけで、胸の奥が波立ってしまうのだから。
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ほの暗い浴室にはカモミールの香りが満ちていた。適度な温度に調整された湯に浸かり、目を閉じると、母の胎内に戻ったような安堵を感じる。ゆっくりと両の掌を腕に滑らせ、腕の付け根から胸元へとなで下ろした。皮膚の下には、日々の鍛錬によって作られた筋肉がある。女である事を証す胸乳をそっと掌で包んでみた。生まれのままの身分・性別に従っていたならば、子供どころか孫さえいるかもしれない年齢なのに、それは開く事を拒む蕾のようにつつましく固いままだ。手にするものと言えば繊細な透彫りを施した扇や、赤く薄い舌をチロチロとせわしなく出し入れ愛くるしい生物くらいしかない貴婦人たちの柔らかな体に比べれば、私の体はむしろ市場で働く女たちのそれに近いだろう。力ある者に庇護される事を前提として形作られていく貴婦人達の優美で柔らかな肉体と、自らの命を繋ぐ為に働く女たちの肉体。かけ離れているように見えながら、その本質は同じだ。男ではない者、男と一対となるべきもの・・・。私が女であるならば、対となるべき男を求める事は、ごく自然なことなのかもしれない。では、誰を?
就寝の平安を祈る言葉を残し、アンリエッタは部屋を辞していった。私は部屋に一人になった。まだ少し湿り気の残る髪から、薔薇の香りがほのかに漂っている。寝台の脇のサイドボードの抽斗の奥から、銀の小箱を取りだした。赤いビロードを開くとブルーパールのチョーカーが、あえかに光る。見事に粒のそろった青い真珠を指先でなぞると、ひんやりと滑らかだった。
「オスカル、あなたが本当に人生を託したいと思う男性に出合ったら、その方にこれを首にかけてもらいなさい。あなたは幸せになっていいのですよ。あなたが軍人であり続けたとしても、女性であることを忘れてはいけません。あなたは、誰よりも美しく、優しい、私の愛する娘なのですから。それを忘れないで。」
母の慈愛に満ちた眼差しと言葉が、今も熱く胸を満たす。しかし、母が言うように、人生を誰かに託すなどという事が、果たして私にできるのだろうか?ジャルジェ家の嫡男として、生まれた時から自らの意思と責任において生きる事を求められてきた。不穏な世情を憂い父母が勧めてくれた結婚を、例えそれがジャルジェ家の存続の為であっても、私は受け入れる事が出来なかった。
私には多くの兵士を束ね彼らの命を預かる者としての責任がある。あまたの困難を乗り越え、手にした軍人としての人生を、捨てることなどできるわけがなかった。それに、私の人生は、決して私一人で作ってきたものではない。
常に私の傍に居てくれたお前無くして、どうして私が今の私たりえただろう。いつだって、お前に恥じない生き方がしたかった。他の誰よりも、お前に傍にいて欲しい。私が私で在る為に、お前が必要なんだ。
青い粒をなぞるのは、白く細い女の指先。
お前に抱きしめられたい。出会いの日、髪に絡んだ花弁や葉を取り除いてくれたように、優しくこの髪を梳かれたい。朝な夕なに交した優しい触れ合いを再び取り戻し、そして、私もお前を抱きしめ、柔らかな巻き毛に指を絡め、暖かくしっとりとした唇にくちづけたい。寄り添って体温を分けあい、お前の瞳の中に微笑む自分の顔を見つける喜びが欲しいのだ。
私の人生をお前に託す事はできない。なぜなら、すでに私達はお互いを支え合いながら、共に生きてきた。そして、これからも・・・・。
「いつまでも、一緒だよ。」
薔薇園の葉陰で交した幼い約束を、永遠のものとする為に、私とお前が新たな約束を結ぶ時が来る。この首飾りは、その印となるだろう。
知らぬ間に、涙が頬を濡らしていた。
「彼を愛しているのですか・・・?」
ジェローデル、今なら、君の問いに私は答えられる。
私は、アンドレ・グランディエを愛している。
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重く垂れ込めた雲から今にも雨粒がおちて来そうな嫌な空模様だった。
昨日封鎖した会議場の警備にどの班を当てるべきか、頭を悩ませながら隊舎に向かう。平民主体の構成だからこそ、衛兵隊への風当たりが強くなるのは必至なのだ。同族に対する裏切りは、敵に与えられる屈辱よりも更に深い憎しみを産む。昨日の民衆の怒り様を考えると、無用な挑発を招かぬ為に、今日は近衛による警護が望ましかった。日頃から折り合いの悪い上司を説得し、さらに古巣とは言え、指揮をとる元婚約者に無理を言うのは気が重い。今日のローテーションの中で抑えが効きそうな班をあげてはみるが、彼らにまた昨日の様な仕打ちがなされると思うと、忍びなかった。やはり自ら上官のもとに出向き説得するしかないと、馬車を降りた時には、腹をくくった。
ところが、司令官室に着くとすぐにやってきたダグー大佐が告げた言葉は、全く意外なものだった。
「今日の議場警護は、近衛隊が当たるそうでございます。衛兵隊は市中巡回を怠らぬようにと、先ほど総司令本部から伝令が参りました。」
気がかりがあっけなく解決し、ほっとすると同時に、この決定がなされた裏になにがあるのかと不安にもなる。
「昨日の今日だ。正直言って、ありがたい。だが、どうしてそのような決定がなされたのか、解せないな。どう思われる?ダグー大佐。」
昨日の報告を彼に任せていた。衛兵隊員達の現状に精通している大佐の報告が、なんらかしらの影響を与えたものと思われた。
大佐は、私の質問に一瞬困惑の表情を浮かべ、言い難そうに口をひらいた。
「昨日ブイエ将軍のもとにご報告に伺った際、ちょうど近衛連隊長殿の副官がお見えになっておりました。栗色の髪で、男でも見惚れるほどの美丈夫でしたよ。確か、C中尉とおっしゃる方で・・・。」
副官からの報告を受けたジェローデル少佐が、私情から今日の警備をかってでてくれたとは思わない。治安維持に対する警戒感と状況判断から、彼は進言してくれたのだろう。
「そうか。C中尉は相変わらずの美丈夫ぶりか。彼は見かけ以上に頭が切れる。貴公の報告が意味するところを汲み取り、上官に報告してくれたようだ。偶然に恵まれたにせよ、貴公の的確な報告のおかげだな。」
着任以来、温厚で実直な副官の存在に助けられてきた。様々な個性を集めた集団を御すには、役割分担が必要なのだ。
「グランディエ君の報告があってこそです。いつも簡潔にして十分な情報を、彼はあげてくれますからね。」
ダグー大佐のお前への賛辞に、思わず頬が緩んでしまう。衛兵隊に赴任して以来、当前のようにお前が果たしてきてくれた役割の価値を、改めて痛感する。本当は、ずっと以前からそこに存在していたのに、私が気付かなかったものが何と多くある事だろう。
「議場が封鎖されたと知ったら、議員達は代わりの場所を探すのだろうな。」
議場から歩ける範囲で、平民議員総勢600余人が収容できる場所は数カ所に限られる。立場上こちらからその場所を示唆してやることもできない。私ができる事は、彼らの移動の安全を確保することだけだった。
「左様でございましょう。議場は動きませんが、議員達は場所を求めて動き回る。警護する我々も骨ですな。」
副官は、浮かぬ顔で言った。
「なに、議員達の警護は、我々の本来の任務だ。隊員達の心理的抵抗はないだろう。まずは議場周辺の大人数が収容できる場所をピックアップして情報がとれるように人員の配置をしてくれ。教会、講堂、倉庫、そういった場所に限られるはずだ。短い距離でも数百人が移動する事になれば、一般人や馬車の通行を一時的に制限しなければなるまい。 封鎖班、誘導班、警護班を編成し、すぐに議場前に配置する。二十分後に出発する。アンドレ!大佐の補佐を頼む!」
私の指示に、ダグー大佐とアンドレはあわただしく出て行った。編成を整え議場前に到着した時には、すでに議員達が道に溢れていた。道路に簡易柵を立て、移動に備え議員達と市民とを分離していく。昨日我々が封鎖した入口付近は、武装した近衛隊士達が固めていた。掲示板には、御前会議が22日に開催される事が書かれ、その準備の為に議場を閉鎖する旨の通知文が貼られていた。
朝から低く垂れこめていた雲は、一層厚くなり、湿った風が吹きつけ始めていた。今にも大粒の雨が落ちてきそうだった。つい三日前に国民議会議長に選出されたばかりのジャン=シルヴァン・バイイと有力議員達は、入口付近で空を見上げながら、失った議場の替わりをどうするか、必死で話し合っていた。
「サン・フランソワ通りにある球戯場の講堂はどうだろうか。徒歩15分ほどの距離だし、十分な広さがある。」
ほどなく、パリ選出議員のジョゼフ=イニャス・ギヨタンの提案が採用された。通りに溢れていた議員達が一団となって行列を作りながら球戯場へと移動を開始した。道筋の人々が、口々に彼らへの熱い支持を叫び、後へと続いた。衛兵隊士達は、彼らの通行が円滑に進むように、進路に対し交わる道を封鎖し、議員団に混じろうとする市民達を規制した。粛々と議員達は新たな議場となるべき場所へと向かう。やがて、球戯場に全ての議員が入場し、扉が閉められた。まるでその時を待っていたかのように、大粒の雨が音を立てて降り始めた。
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