深夜に伝令がやって来た。会議場の封鎖は解かれ、明日国王陛下の臨席のもと、3つの身分の代表が一堂に集められる事となった。衛兵隊は議場周辺の警護にあたるようにとの司令が伝えられた。議会再開は予想された事だったが、明日の会議の行方は誰にもわからない。ただ何かが起こる予感だけが、重くのしかかる。寝台に身を横たえても、頭の芯が冷たく冴えて寝つけない。仕方なく身を起こし、キャビネットからブランデーとショットグラスを取り出した。瓶を傾け琥珀色の液体が流れる様を見つめた。ゆらゆらと揺れる小さな水面に、ゆがんだ顔が映る。この胸のざわめきはなんなのだろう。明日、起こるなにかへの不安か、それとも、彼への慣れない感情ゆえなのか。
アンドレ・・・
アンドレ・グランディエ・・・!
幼なじみで、親友で、従者で、部下で・・・、誰よりも近くあって、深く魂を分け合う者。
おまえの傍にいたい。お前の胸に身体預け、憂いを捨てて安らぎたい。
ああ、今更なんと身勝手なこの思い。愛を請うた彼を拒絶したのは自分なのに。
彼の愛を知らず、ただ我が身の寂しさ、ふがいなさの為に、彼を縛り付けてきた私なのに。
琥珀色の液体を一気にあおれば、痛みにも似た感覚が、喉を焼き、胸を焼き、やがて胃の腑に落ちて、熱が全身を包んで行く。
明日が待ち遠しかった幼い日は、遙かに遠い。
「いつまでも一緒だよ!」
薔薇園の葉陰で交わした約束を、無邪気に信じ甘えきっていたのは私だ。私達はあの美しい世界から、もうずっと遠いところにいるというのに、お前の優しさ、暖かさに、私はただ縋って生きている。このままではいけない事は、わかっている。ただ、一歩を踏みだし、一言告げれば良いだけなのだ。
「お前を愛している。今、一人の女として、私が心から欲しいと願うのは、お前だけだ。」
告げたなら、お前は私を受け入れてくれるだろうか。いや、その前に、お前に愛を告げる資格が、私にあるのだろうか・・・?あまりにも無自覚にお前の愛をむさぼってきた私に・・。
「お目覚め下さいませ。お時間でございます。」
耳元で声を掛けられて、驚いて目を覚ました。以前であれば部屋に入る人の気配さえ察して目覚めていたのに。枕元に立たれ、その上、声を掛けられるまで気づきもしないとは。軍人としての緊張が足りないと、自身のふがいなさに嫌気がさす。
アンリエッタは手際よく窓のカーテンを開けていく。夜は明けているはずなのに、まだ窓の外は暗かった。昨夜からの雨は止む気配もない。重く垂れこめた雲から、激しい雨が降っていた。身体は水を吸った綿のように重く、身体を起こしたものの、すぐに動き出す気力さえない。寝台の縁に腰を下ろしたまま、洗顔の支度を整えるアンリエッタの背中をぼんやりと見つめながら、覚醒を待った。
会議場が閉鎖されていた間に、それぞれの陣営は、自分達が目指すものを熟成させただろう。次の会議で、二つの勢力はきっとぶつかり合う。その様がまざまざと目に浮かぶ。その時、私は・・・。
「オスカル様・・・?お顔の色が優れないようですが・・・。」
鏡に映るアンリエッタが、私の髪を梳りながら心配そうに言う。
「うん・・・、昨夜、うまく寝付けなくてね。それに、そろそろくる頃だろうし・・・。」
私の言葉に、アンリエッタはっとしたように顔を上げ、私達は鏡の中で見つめ合った。
毎月訪れるわずらわしい「月の使者」。その訪れは、否が応でも私の身体が女であるという現実を突きつけてくる。満ちては欠ける月を追うように、女の身体はそのリズムを刻む事を止めない。緊迫した情勢の中であっても、それは変わる事がない。
「朝食にいつものお茶をご用意しましょう。くれぐれもご無理をなさらないで下さいませ。」
「今日ばかりは、無理をするなと言われてもどうにもなるまい。議会は荒れるだろう・・・。」
アンリエッタは、私の言葉に困ったように目を伏せて、クロゼットへ服をとりにいった。
私は夜着を脱ぎ落し、白く薄い下着の上にコルセットをつけた。男仕立てのブラウスに、キュロット、ストッキング、固い長靴、金モールに飾られた軍服、腰には剣を吊る革ベルト・・・。手渡されるものを順に身につけてゆけば、この姿は次第に男のものになっていく。鏡の中に青白く険しい顔をした私が映っていた。
屋根を激しく叩く雨の音と、水しぶきを上げる車輪の音だけが、車内に聞こえていた。荒れる天候は、まるで今日の議会の行方を暗示しているかのようだ。私達は会話もなく、雨の滴がとぎれなく流れる窓を見つめている。ふと彼の膝におかれた手に目をやると、それは固く握られ、甲には幾筋かの静脈が浮き立っていた。昨夜咳込む私の背中をさすり、肩を抱いてくれた手は、優しく穏やかだった。その同じ手が、今朝は固く握りこまれ拳となっている。彼は一体その手の中に、何を握り締めているのだろう。先の見えない世情への不安か、それとも・・・。
今日にも議場封鎖が解かれるかもしれないと、昨日の内に予告しておいたせいか、到着した時にはすでに隊員達の準備はあらかた整っていた。指令本部から届けられた御前会議の日程と衛兵隊に割り振られた警備区域を確認し、ダグー大佐と各班の配置を組んでいく。会議場の内部は国王付きの近衛隊が受け持ち、衛兵隊は王宮から会議場までの通りと会議場周辺の警護に当たることになった。
ダグー大佐と入れ替わりに、連隊本部に情報収集に出していたアンドレが戻って来た。
「例の書記官が情報をくれた。日曜の贈り物がだいぶ気に入ったようだ。今日は議場に傍聴人は入れない。それと、昨夜遅く、議長バイイを三人の貴族議員、エギヨン、ムヌー、モンモランシーが尋ねたらしい。ネッケル氏が会議を欠席するかもしれないと書記官は言っていた。」
彼がもたらした情報は、事態が予想以上に深刻であることを告げていた。
「なに?ネッケル氏が御前会議を欠席だと?」
「ああ、もうこの情報は、国民議会支持派の議員達はみな知っているはずだと。恐らく、噂は市中にも流れているだろう。」
ネッケル氏の存在が僅かな望みであったのに、王室は自ら第三身分との調停者となりうる者を、陣営に引きとめることを放棄してしまったのか。傍聴者を締め出し、議会警備に国王付きの近衛兵を配置したところをみても、王室側は、一気にこの行き詰まりを打破しようとしている。譲歩する気は恐らくないだろう。国民議会派とて同じことだ。今までとは違う何かが起きようとしている。思わず身体に震えが走り、襟の合せをグイと引き締めた。
「大丈夫か?顔が青い。」
銃を肩に背負ったお前が、心配そうに声を掛けて来る。
「なんの、武者震いだ。今日は覚悟をしておけ。議会は荒れる。アンドレ、いくぞ!用意はいいか。」
「ああ、オスカル、行こう!」
お前の変わらぬ力強い応えが、私の心を鼓舞してくれる。
降り止まぬ雨の中、私は隊員達と共に、今日の持ち場となる会議場へと向かった。
★ ジュール・ミシュレ著「フランス革命史」中公文庫版
ジャン=クリスチャン・プティフィス著「ルイ16世(下)」中央公論新社 を参考にしています
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