篠突く雨を切り裂く様に、男が走っていく。
「ばか!!どこへ行く、何をする気だ!?」
私はすぐさま後を追った。権力者の横暴に、堪えきれないアランの気持ちは痛いほどわかる。だが、儀典長を切り捨てたところで、この世はなにもかわらない。血の滾りに身を任すほど、まだ彼は若いのだ。手には抜き身の剣が握られている。会議場と隣接する建物のアーケードの長さはおおよそ25トワーズ(今の50メートルほど)。足に自信はあったが、素手で走られたら追いつけない。だが、抜いた剣が前を走る男の枷となる。諦めなければ、間合いを詰めるチャンスはある。
「アラン!待て!無茶な事をするんじゃない!」
走りながら、彼の名を何度も叫んだ。
アーケードの終わりで奴のスピードが落ちた。一気に間合いを詰め、剣を持つ手首を捕まえた!
「ばかっ!!無意味な事は止めるんだ!!」
もう、息が詰まる寸前だ。肺に残る息を限りに、無鉄砲な部下を怒鳴り付けた。アランの腕をつかんだまま、私はもう声も出せないでいた。彼の人生をこんな事で終わらせたくない。無鉄砲さで負ける気はしないが、その代償が決して安く無いことも身に染みている。
アーケードの屋根から薄い帳の様に雨の滴が垂れ落ちる。アランの激しい息づかいを聞きながら、私は迷い子を見つけた母のような安堵にみたされ、思わず頬が緩んだ。
「よ・・・、よけいな・・・。」
腕を取られたままのアランが、叱られた子供のような顔をして、つぶやいた。血の気は多いが、憎めない奴なのだ。
突然、石敷きの床にアランの剣が落ちて、耳障りな音を立てた。つかんだ腕がふりほどかれて、逆に両の手首を捕まれた。払おうとしたが、腕にはほとんど力が入らない。彼を止める為に全力疾走をしてしまったせいだ。もとより体力に余裕が無くなってしまっている。悔しいが、此奴には体術の小技も通じない。叱りつけるか、理詰めで説くか・・・。アランをここに留める事が出来さえすれば、どちらでも構わない。上がってしまった息を整えながら、間合いを保ったまま、じりじりと後ずさった。踵が壁にあたり、もう後退の余地がなくなった事を悟った時だった。
いきなり間合いが詰められ、アランの顔が近づいてきた。その顔に浮かぶ表情に、私は驚愕した。それはあの夜のアンドレの表情と不思議なほど重なるものだった。まさか、アランが・・・?
そう思った瞬間、壁に身体が押しつけられ、アランの唇が私の唇に重ねられていた。火のように熱い唇が、私の唇を荒々しく食んでくる。驚きと同時に、自分の鈍さにあきれるばかりだ。男の姿をしていても、私には男の気持ちなどわからない。
なぜ、今なのだ?
なぜ、ここなのだ?
なぜ、この私なのだ?
渾身の力で身をよじり、顔を背けるが、アランの唇は私のそれを執拗に追いかけてくる。男とは、こういう生き物なのか?非力な女を力でねじ伏せ、意のままに扱うものなのか?女の意思など斟酌せずに、己の欲望をこんなにもあからさまにぶつけてくるものなのか?この私も、女だから・・・?剣を持てば互角に戦いうる相手だと、知っていても?
混乱のままにもがいてみたが、手首はいよいよ固く握り締められるばかりだ。アランの唇が首筋に吸い付いた時、激しい嫌悪がこみあげた。
「は・・・な・・・せ・・・!」
私に触れていいのは、アンドレだけだ。お前じゃない!心の中で、叫んでいた。
急に左手首が不自然に引っ張られ、アランの悲鳴とともに、私は体の自由を取り戻した。壁に体をもたせかけたまま、私は動く事ができなかった。眼前にアンドレの背中だけが見えた。振り上げた拳と、広い背中が、噴き上がる怒りに震えていた。まるで時間が止まってしまったかのように、二人は睨みあったまま、微動だにしなかった。焼けつくような緊張が、極限まで高まって行く。しかし、振り上げられたアンドレの拳は、そのまま更に固く握りしめられたまま、ゆっくりと下ろされた。
「アラン、武官は感情で行動するものじゃない。おまえは班長なんだ。早く配置に戻れ!」
押し殺した冷たい声だった。聞いた事のない声・・・、いや、違う。アランたちに拘束された私を救うため、食堂に飛び込んできたお前は、こんな声で居並ぶ兵士たちを恫喝したのだ。およそ私の前で見せたことのない荒々しさで、兵士たちを罵り、躊躇なく引き金を引き、発砲してのけた。
男とは、そういうものなのか?男として育ち、生きてきた私にすら、想像し得なかった激しさを、お前はその穏やかな佇まいのなかに、ずっと隠しもっていたというのか?!
アランが剣を拾い上げ、走り去る気配を、お前の背中越しに感じた。私とアランの間に立ちはだかったお前は、一体何を思っていたのだろう・・・。緊張の糸がふと緩み、気が遠くなる。壁にもたれたまま、深く息を吸いこんだ。唇に残る感触を払うように唇を手の甲で拭ったとき、振り返ったお前と目があった。
ただ一つの黒い瞳が、言葉より雄弁に、私を護ると言っていた。ずっと、ずっと、私はお前に護られてきたのだな・・・。
「議員達の誘導は・・・?」
私は息を整え、ようやく壁から身体を離して、襟元を整えた。
「小隊長が当たっている。」
アンドレが、私からの指示として、小隊長に指揮をするように伝えたのだろう。
「陛下が到着なさる時間が迫っているな。」
「ああ、お迎えに出なければな。」
「よし・・・、では、行こう。」
アーケードに二つの靴音が響き始める。私が一歩を踏み出す時、お前はいつもそこにいてくれる。だから、私は迷うことなく進めるのだ。
(続く)
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