月曜日の朝、はたして議事堂の封鎖が解かれることはなかった。議事堂の前に集まった議員達は、当然のように球戯場の講堂を目指した。そして、頼みとするその場所が、アルトワ伯によって押さえられていることを知る。
議員達は、球戯場からほど近いフランシスコ派の修道院の門を叩いた。しかし、修道僧たちは静かな生活を脅かされる事を恐れ、彼らを招き入れることをしなかった。私の立場では、議員達が留まれる場所を確保することもできず、ただ、彼らとともにあり、遠巻きに見守ることしかできないのだ。
平民議員達が最後の望みをかけ目指したのは、サン・ルイ教会だった。聖堂内での討議が許されなくても、教会前には広場がある。重要なのは開かれる場所ではなく、議論の内容なのだと、議員の誰もが信じていた。屋外で立ったままの議論さえ覚悟していた彼らに、思いがけない救いの手が差し伸べられた。平民議員との合流を決めた僧侶議員達が、彼らを聖堂内へと招き入れたのだ。
広場の要所に隊員を配置し、私は側廊の隅で討議の行方を見守った。僧侶議員達は、最初こそぎこちなく内陣に集まって平民議員達の討議の行方をうかがっていた。しかし、やがて彼らは自らその場所を離れ、議場となった身廊へと席を移した。
質素な服を纏った平民議員と、墨染の衣を纏った僧侶議員達の頭上に、透明な光が降り注いでいた。集う議員達の顔は、素朴な喜びにあふれていた。身分は違っても、彼らの望みが1つである事は明白だった。混迷する祖国を救い、貧しい人々に人として生きる希望と喜びを与えたい・・・。
1人の議員がその演説の終わりに、感極まって叫んだ。
「宗教の殿堂が、今や祖国の殿堂となったのだ!」
その言葉に割れんばかりの拍手が沸き起こった。拍手の音は聖堂内に鳴り響き、天井から下がるシャンデリアさえ震わせる。神が定めたとされる身分の垣を越えて、手を繋ごうとする者達の頭上に、天の祝福のように光の粒が降り注いでいた。私はその様を、確かにこの目で見たのだ・・・。
終業を告げる鐘が鳴り響き、傾いた日差しが聖堂の陰を淡く落とす広場に、議員たちは散っていく。今日一日の実りに満足したかのように、彼らの後ろ姿派は力強く自信に満ちていた。
教会の階段を下りていくと、広場の警護にあたっていた隊員達が、すでに整列を終えて待っていた。
「明日にも、議場封鎖が解かれ、御前会議が開かれるかもしれない。早朝に集合がかかっても対応できるよう、油断なく準備しておくように。私はこのまま屋敷に戻る。議場封鎖解除の命令が出たら、遅くても必ず屋敷に伝令をよこしてくれたまえ。」
小隊長に指示を出し、隊舎に戻る彼らを見送った。見上げた西の空は、急速に灰色の雲に覆われていく。広場に湿った風が吹き始めていた。
「オスカル!雨が来そうだ。急ごう!」
馬を牽いて来たアンドレに促され、屋敷へと急いだ。
追いかけてきた雨に、屋敷の門でつかまった。土砂降りの中、駆け込んだのは母屋ではなく厩舎だった。馬もろともに、私達は濡れ鼠になっていた。
「なぜ玄関に直接馬をつけないんだ!この雨は当分止まないぞ。せめて髪だけは拭いておけよ!」
アンドレは、棚からリネンを取り出すと、怒った様に投げてよこした。
「ルミエールの様子を見たかったんだ。私の名付け子だからな。」
髪から滴る水をふき取りながら、悪びれもせず答えると、仕方ない奴だとでも言いたげにお前は肩をすくめ、馬達の馬具を外しにかかった。馬達の世話をかいがいしく焼いているアンドレの気配を背中に感じながら、私は奥まった馬房の横木に腕を掛け、子馬の姿を飽かず眺めた。
遅い春に生まれた純白の子馬に、ルミエールと名付けたのは私だった。母馬のネージュは、初めて迎える出産に怯えていた。夜半に産気づいたものの、腹の中で育ちすぎた子はなかなか産まれて来ず、母子ともども命が危ぶまれた酷い難産だった。ジャンとアンドレが必死になって介助して、子馬が生まれ落ちた時には、東の空が薔薇色の朝焼けに染まっていた。
あの日、血のように赤い夕焼けの中で、私は足を折った愛馬の命の炎が消えていくのをただ見ているしかなかった。澄んだ曙の光のなか、まだ乾ききらぬ身体を必死で起こし、白い子馬は立ち上がろうとしている。何度もよろけ、倒れそうになりながら、ついに、まだか細いその足で地面を踏みしめ立ち上がったとき、私はそこに、確かな命の光を感じた。
子馬に自ら名を付けたいと言ったとき、皆が酷くいぶかしがった。私は多くの馬を愛してきたが、一度として自分で名付ける事はなかったからだ。子馬に「ルミエール」の名を与えた時、皆は更に驚いた。その名は、私の前で話す事が禁忌ともなっている名前だった。愛馬の死、それも父親の手で薬殺されるという壮絶な光景を目の当たりにした経験は、まだ子供だった私にとって、心を深く傷つけるものだったからだ。
子馬はたっぷりと敷かれた藁の上で気持ちよさそうにうずくまり寝息を立てている。日に日にしっかりとして行く様子が見て取れ、思わず頬が緩む。均整の取れた伸びやかな四肢は、将来素晴らしい馬となる事が容易に想像できた。私は、愛らしい子馬をしばらくながめた後、そっと柱の陰に隠れるようにして、アンドレの姿に目をやった。
彼は上着を脱いで、忙しく働いていた。濡れたシャツが肌に張りつき、男らしいシルエットをそのままみせている。カンテラの柔らかな光の下で、腕を伸ばし馬の背を拭う動作に、背中の筋肉が動いているが、はっきりと見てとれた。馬達に優しく声をかけながら、無駄のない動きで濡れた馬体を拭き上げていく。まくり上げた袖からのぞく腕や、濡れた髪をかき揚げた拍子にのぞいた首筋から、目がはせなくなる。抱きしめられた時のすっぼりと包み込まれるような感覚と、首筋に鼻先を埋めたときの日向臭い彼の髪の匂いが鮮やかに蘇り、胸苦しくなった。身体の芯からざわめきとともに切なく甘い何かが沸き上がる。雨が染みわたった軍服は身体の熱を奪っていくのに、身体が自ら熱を帯びていくのがわかる。膝の力が緩み、思わず柱にしがみついていた。自分の身体になにがおこっているのかわからない。言い表す言葉を知らない感覚に、翻弄される・・・。
突然、胸の奥に軋むような痛みが走り、むせるような咳の発作に襲われた。
「身体が冷えてしまったな。大丈夫か?ごめんな。気が効かなくて・・・。」
走り寄ってきた幼馴染は、柱にしがみつく私の体にブランケットをかけると、咳の止まらない私の背を優しくさすってくれた。肩を包み、背中をゆっくりと上下していく大きな手の感触に、咳の息ぐるしさと、お前の変わらぬ優しさに、思わず涙が滲んでくる。
「オスカル、もう気がすんだろう?少し雨脚が弱くなっている今のうちに戻ろう・・・。」
ブランケットに包れたまま、肩を抱かれ、まだ止まぬ雨のなかを歩きだした。雨は幾分小ぶりになっていたが、渦を巻くような風が吹いていた。道の半ばで、カンテラの炎が風にあおられ消えてしまった。突然暗闇に閉ざされ、思わず足が止まる。雨の中、母屋の明かりはかろうじて見えていたが、足元は全く見えなくなってしまった。
「真っ暗だな・・・。」
「大丈夫だよ。俺には慣れた道さ。目をつぶっていたって行きつける。お前は、屋敷の明かりを見ていればいい。」
肩に添えられた手に力が込められ、そっと歩を促された。言葉の通り、暗闇のなか、少しの迷いもなくお前はあるきはじめる。風雨の音と、足音と、お前の息使いだけが、聞こえていた。私は闇の中に浮かぶ光だけを見つめ歩いた。頬を伝う雨の滴は、なぜか、温かかった・・・。
★ ジュール・ミシュレ著「フランス革命史」中公文庫版 を参考にしています
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