激しくたたきつけた扉が、背中で震えていた。
心臓は胸郭を打ち破らんほどに、脈打っている。
あれは何だ?
あれは何だ?
唐突に眼前に現れたあのものを、言い表す「言葉」を必死で探した。
どこにも、見つからない・・・!
苛立ちと焦りに、頭に血が上る。
「隊長?」
実直な年上の部下が、怪訝そうに私を見ていた。
「着替えが済んだら私の部屋にきてくれ。早く着替えに行きたまえ。我々には風邪を引いている暇など無いのだからな。」
追い立てるような言葉にも、大佐は訝しげに眉を寄せただけで、律儀に敬礼をして立ち去った。ノブに手をかけたものの、扉を開く勇気が出ない。まだ「あれ」を言い表すべき言葉が見つからない。俯いた私の髪から水が滴り、床の上に黒くしみをつくっていく。
裸体など、見なれたものではないか。軍に身を置けば嫌でも目に入る。庭園にも、広間にも、居室にも、「芸術的裸体」は掃いて捨てるほどにある。「あれ」と「それ」との間の、どこに違いがあると言うのだ?ましてや、幼いころから一緒に育ち、身を寄せ合ってきた仲だ。
雨水を吸い不愉快にまとわりつく衣類から、早く解放されたいのは至極当然のことである。司令官室という場所に対するわきまえが足りていないのは否めないが、雨に濡れた体を拭いていた、ただそれだけのことなのだ。何故、今、私がこんなに動揺しなければいけない? そうだ、私だって早く着がえを済ませねばならない。やらなければいけない仕事は、山ほどもある。
気を取り直して、ノブを回した瞬間だった。扉がいきなり開いた。鼻先を打たれそうになり、慌てて後ろに飛びのいた。
「うわっ!」
開いた扉から間抜けた声を上げた奴が、まろび出る。
「そこを退け!着替える。」
押し通るように部屋に入ると、何か言いたげな奴の鼻先で扉をバタンと閉めてやった。誰もいない司令官室に、窓を叩く雨音だけが響いている。雨脚がまた強くなったようだ。仮眠室にあてている小部屋に入り、鍵を掛けた。サーベルをはずし、水を吸ったサッシュを解いて椅子の背に掛けた。
「くそっ!」
濡れた革ベルトは容易に外れない。冷えて鈍った指先がもどかしい。壁際に置かれた洗面台の上に、フランネルの浴布が用意されていた。髪の滴を拭いとり、軍服を脱いでいく。雨水は下着にまで染みて、肌に貼りつき不快だった。キャビネットの鍵を開け、白い糸でイニシャルが刺繍された薄青のリネンのポーチを取り出す。
着替えの時には、部屋の鍵を掛けるかアンドレをドアの外に立たせる事、一揃えずつポーチにいれた肌着は、鍵付きのキャビネットに必ず入れる事、任官した時からばあやに口うるさく言われ続けた事だった。
ばあやの配慮は、「淑女の慎み」という全く持って見当違いのものだった。だが、ばあやの配慮は期せずして「女性」である事を僅かでも感じさせるものを、他人の目に触れさせぬという目的を果たしてくれていた。女性用というにはあまりにそっけなく、男性用と言うにはあまりに華奢な、私だけの為に作られたコルセットは、どちらともつかない私という存在に良く似ていた。
水を吸った紐は固くしまり緩んでくれない。一段一段をもどかしく緩め、床に脱ぎ落とした。解放された体がほっと息をつく。貼りついていたリネンの下着も脱ぎ去り、肌に残った湿りをふき取っていく。首筋から胸元を拭おうとした手に、重さを感じた。見下ろすと、薄紅に染まった頂をもつ青い静脈を浮かせた白い膨らみがあった。
この胸を見たら、奴も驚くのだろうか?
突然、脳裏に浮かんだこの問いに、先ほど以上の動悸におそわれた。打ち消そうとするほどに目にした光景が浮かんでくる。自分の肌とはまるで違う暖かな象牙色の肌、筋肉に沿って淡い陰を作った広く平らな胸。
直接あの肌に触れたい・・・。
何を私は考えている?そんな事が許されるはずがない。
なぜ、許されない?
たわいのない冗談に叩き、喜びも悲しみも、なんの遠慮もためらいも感じることなく、顔を埋めてかみしめて来た場所ではないか。衣服の隔てがあろうと、なかろうと、なんの違いがある?
自分の意思を無視して湧き上がる感情に翻弄される。
トントン・・・トン
馴染んだリズムのノックの音に、飛び上がった。
「着替えは済んだか?ダグー大佐がお見えだぞ。」
掛けられた言葉に我に返った。浴布を握りしめ上半身裸のままで、私は今、何を考えていた?
雨は相変わらずガラス窓を叩いている。
「すぐに行く。明日の編成について、目を通しておくよう伝えてくれ。」
裏返りそうになる声を必死で押さえこみ、慌てて着替えに取りかかった。
ポーカー・フェイスは得意だが、まさかお前と二人、乗り合わせた馬車の中で、心の中を読まれまいと必死で取りつくろう日が来ようとは、思ってもみなかった。
闇夜を映すばかりのガラス窓に顔を向け、私は黙り込む。斜向かいの席に座るお前も、俯いて目を閉じる。私はガラスに映るお前の姿をじっと見つめる。
頬にかかる黒髪が、馬車の振動にあわせて揺れていた。膝の上に重ねて置かれた手に、思わず目が吸い寄せられる。少し節だった長い指の先にきちんと整えられた爪があった。幼いときから、身繕いを怠るなと厳しくしつけられたお前は、いつも清潔でこざっぱりとしている。穏やかで優しい幼馴染。
振り返れば、私達の関係はもうずいぶんと前から、少しずつ変わり始めていたのだろうか。
私は男として育った。誰も私に女性としての振る舞いを教えてくれる者はおらず、好ましく思う男性に思いを告げる術も知らなかった。男女の愛について描かれた文学にも触れて来たし、戯れの恋に興じる宮廷人達の振る舞いを目の当たりにしてきた。他人の恋愛であれば様々に分析することも、批評することもできた。男性が女性を、女性が男性を愛するという事の真実とはいかなるものか・・・。言葉巧みに語る事はできても、恋の主体者として行動しようとするとき、私の心と体は、性の狭間で引き裂かれ、立ちすくんでしまう。
私達は何と似ている事だろう。私の中の女がフェルゼンを求めていたように、お前の中の男が、私を求めていたなんて・・・。私が女性として愛される事を望んでいる事を知ったフェルゼンは、もう会う事はできないと、私に別れを告げた。それが、彼の私に対する誠実の証だったのだ。だが、私はフェルゼンと同じ事はできなかった。お前と別れるなんて、お前と離れて生きる事なんて、考える事すらできなかった。だから、私は自身の中にあった女を無視する事に決めた。そして、お前の中にある男も。なんという欺瞞だろうか。
軍服を纏い、荒っぽい訓練に身を投じても、身についた柔らかな物腰や、他者への篤い配慮がお前から失われる事はない。骨の髄まで染み込んだ習慣と、人となりは容易に変わるものではないのだ。私の結婚話が原因で暗い影を背負ったような時でも、髭はきれいに剃られ、爪先の手入れがおろそかになることもなかった。それだからこそ、言動の荒みが痛々しかった。体に染み込んだ習慣に規定された行動と、抑えがたい衝動に突き動かされた行動とのちぐはぐさが、哀しかった。
私は嫡男として育ち、軍人になるべく養育され、そして、軍人として生きてきた。ジャルジェ家の末長い繁栄を担うべき立場で在りながら、自分自身をその責務の前に投げ出す事が出来ない。なぜなら、私がその責務を全うしようとすれば、お前を深く傷つけ悲しませる事になるからだ。なによりも、その事が辛い。
思い詰め、苦しみぬき、それでも、お前は私が生きる事を望んでくれた。私の傍で生きる事を選んでくれた。お前の存在が自分にとって唯一無二のものである事を、今痛いほどに思い知らされている。人の存在は儚く、その心は不条理に満ちている。
つい数日前、一生どこへも嫁ぐつもりがないとお前に告げた。幼いころに薔薇の葉蔭で何度も交した約束の通り、私はお前と寄り添いながら生きて行く事を固く心に決めたからだ。今日もお前が私の傍らに在るのは、当たり前なのではなく、お前自身が強い意思を持って、私の傍に在り続けてくれたからだ。お前の献身と愛情を、私はなんと無自覚にむさぼって来た事だろう。失いかけて初めて、自身の奥深くにずっと在り続けたお前への思いに気がついた。
石畳を走る車輪の音に混じって、規則的な息使いが聞こえる。柔らかな微笑みを浮かべたようなくちびるは、若くして天に召された母親譲りと言っていた。何度そのくちびるが私の額や頬に押しあてられてきた事だろう。そして、私のくちびるもお前の額や頬の感触を知っている。私達は触れ合うことで、互いの絆を、そこにある生きた存在を確かめ合って来た。血を分けた姉妹よりも近く近く寄り添いながら生きてきた。
もしも、お前が再び私を女性として求めたら、私は果たして応える事ができるのか、応えて良いものなのか、わからないでいる。自らが女性の肉体を持つ者である事を、やっと受け入れられるようになったばかりの私は、お前が男性であるという現実に驚き戸惑うばかりだ。今日だって、そうなのだ。頭ではお前が男性だと理解している、だが感情がついていけない・・・。
馬車は速度を落とし、街道から屋敷へと続く道にゆっくりと曲がっていく。軋んだスプリングの音に、お前ははっと顔を上げた。車の振動に誘われて、うたた寝ていた事に気がついて、気まずそうに眇めた目元に淡いカンテラの光が落ちて、ただ一つの黒曜石の瞳はきらりと光った。
馬車を降り見上げると、低い雲がかかる空は月も星も無く、黒々と深い闇ばかり。律儀な執事の出迎えを受け、燭台を掲げたお前に導かれた私は、明かりが落とされた大階段を上っていく。揺れる炎が、二つ並んだ影を壁に映し出す。私の影を呑み込むほどの、お前の影の大きさに思わず息を飲む。心臓の音が耳の奥で鳴っている。なぜ・・・だ?
「今日は雨にも濡れたし、疲れただろう。アンリエッタに足湯の支度を頼んでおくよ。べネディクティンを熱いミルクで割って持って来よう。午後、嫌な咳も出ていた。用心した方がいい。」
そう言いながら、お前は部屋の蝋燭を灯して回る。私は軍服の上着を脱いでソファの上に放り出し、カウチに積まれたクッションに乱暴に身を投げ出した。
「なんということだ。一日職務に励んだというのに、好きな酒の一杯も飲ませてもらえないのか!」
不機嫌につぶやいて見る。
「お前の場合は、寝酒が一杯じゃ済まないのが問題なんだ。」
ソファから軍服を拾いあげたお前は、眉を下げて苦笑する、
「昨晩封を開けたブランデーの瓶を一晩で半分も飲んでしまったそうじゃないか。あまり皆を心配させては良くなかろう?」
次々と起こる事件が私の神経を過敏にさせている。減らないどころか、いや増す酒量に屋敷の者たちが気を揉んでいる。それは重々わかっていた。「オー・ド・ヴィ(命の水)」を飲み、ささくれた神経を麻痺でもさせなければ、焼き切れてしまいそうになる。胸に溜まった澱を洗いざらいぶちまけて、お前の胸に身を預け、くつろぐ事が出来たなら・・・・。何の斟酌もなくお前に甘えていた昔が、酷く懐かしい。
「では、熱いミルクをベネディクティンで割ってくれ。」
「そのレシピは邪道だな。味の保証ができない。」
「では、味の保証できる範囲で。」
埒も無い言葉の応酬にお前は、困ったように肩をすくめて見せて、部屋を出て行った。