窓の外に闇が訪れる。今晩は新月だ。空に月は昇らず、深い闇が世界を覆い尽くすだろう。ガラス窓に、青白く険しい表情の私が映っていた。ふと、自身の顔に、父の面影が重なる。
父は必ずこの部屋にやってくる。その時、私は父に言おう。私は、フランスを守りたい。国民を失った王国はありえない。私が忠誠を誓うのは、このフランスになのだと。
突然、酷い音を立てて扉が開け放たれた。反射的に立ちあがり、部屋の入口を見た。果たして、父だった。その顔は蝋のように白く、仮面をかぶったように表情がなかった。私は父が怒鳴りこんでくるとばかり思っていた。だが、父は無言のまま私に近づいてくる。その手に抜き身の剣を持っている事に気付いた時、私は父の逆鱗に触れた事を悟った。
「勲章と階級章を外し、そこへなおれ!!」
白刃が私の胸元へとまっすぐに向けられる。鬼気迫る父の言葉に、思わず身体は反応し、その場に直立した。父の鋭い眼光に、射竦められそうになるのを必死に堪え、頽れそうになる膝に力を入れた。
「国王陛下から正式な処分決定があるまで、外しません。」
私は、父の人形ではない。父の強固な後ろ盾と王妃様の寵愛があったしても、歯を食いしばり努力を重ね、掴み取ったこの地位だ。何より、私には果たすべき責任がある。今ここで、父に屈する訳にはいかない。私は射返すように、父の青い瞳をまっすぐに見据えた。
白蝋の仮面が見る間に解け落ち、皺を刻んだ顔が朱に染まる。
「処分など待つまでもない!!この謀反人が!!」
父の手に私の襟は掴み上げられ、息がかかるほどの距離に、父の顔が迫った。濃い青の瞳が私の顔を映し、確かに自分が父の子であることを証していた。
「いいか、聞け!例え全ての貴族が王室をみすてて平民に味方しようともこのジャルジェ家は・・・このジャルジェ家だけは最期まで陛下に忠誠を尽くし、王家をお守りするはずだったのだ!」
それは、何度となく聞いて来た言葉だった。父もまた、祖父から聞かされ続けたであろう言葉。善き領主としてアラスの領地を治め、王家へ絶対の忠誠を誓う事がジャルジェ家を継ぐ者に課せられた使命だと言うのなら、天候不順による凶作と古い制度と因習に苦しめられている領民達の為、国民の信頼を失おうとしている王家の為に、今、ジャルジェ家の嗣子として私が為すべき事とは何なのか?! 父自身、領民の生活に心を配って来たではないか。それが領主の務めと教えてくれたのも、また父ではなかったか!
「父上・・・、私に謀反の意思はありません。王が国民に銃を向けてはならないのです。フランスに必要なのは、抑圧ではなく、改革です。この国に生きる人々無くして、王家もまたありえません。」
不意に父の左手が襟から外された。素早く一歩退き、父の顔を見た。興奮に赤く染まっていた父の頬から、みるみる血の気が引いていく。再び父の顔から一切の感情が消えた。
「この家から裏切り者を出すわけにはいかん。父がこの手で成敗してやる。」
今まで聞いた事の無い父の声だった。魂が凍えるように冷たく、容赦の無い・・・。
成敗・・・?父が・・・、私を殺す・・・と・・・?
私を膝に乗せ心躍る英雄譚を語ってくれた父が・・・?
幼い私を優しく抱きあげ、鞍の前に乗せて走らせてくれた父が・・・?
剣を合わせ、誰よりも強くあれと叱咤してくれた父が・・・?
法による裁きを否定し、王家への絶対の忠誠を示す為に、私をその手で殺すというのか・・・?
それが、父の信ずる道というのか・・・?
それほどまでに、ジャルジェの名を、あなたは惜しむというのか・・・。
剣を翳した父が一歩前に踏み出す。同時に、私は一歩退いた。
父の剣の腕は、誰よりも良く知っている。年老いたとは言え、剣を合わせればいまだに勝負は五分だろう。徒手の私に万にひとつの勝機がなくとも、今、私は生き事を諦める訳にはいかない。
私が死んだら、アラン達を誰が助ける?
私を慈しんでくれた母やばあやの嘆きは・・・?
例え信じる大義の為だったとしても、私を殺せば、父もまた一生苦しみ続けるだろう。
無駄なあがきであろうとも、最後まで諦めては駄目だ!
オスカル、考えろ!剣はどこに置いた?剣に代わるものは無いか?
わずかな隙を求めて父との間合いを取った。
しかし、じりじりと後ずさり、ついに、壁際へと追い詰められた。
もう、これまでなのか・・・?
第1班12名の命を助けることもままならず、父の刃にかかり、私は死んでゆくのか・・・?
私を愛し慈しんでくれた家族に、悲しみと苦しみとを残して・・・・?
やっと、気付いたお前への愛を告げることも、ついに叶わずに・・・、
アンドレ・・・・!!
父の剣がまさに私の胸を貫こうとした時だった。
父の身体が大きくねじれ、歪んだ唇から呻き声が漏れた。次の瞬間、父は引きずられるように、私からひき離されていた。黒く大きな影が、父の背後で剣を持つ右腕をねじり上げていた。
「離せ・・・、アンドレ」
唸るような父の声が、その影の正体を明かした。
「離しません!」
この声は誰のものだ・・・?地の底から響くような低い声は・・・?
この恐ろしい声が、お前の声だというのか・・・?!
互いの身体を抑え込もう、引き離そうと、二人は渾身の力を振り絞る。息詰まるような緊張がこの場を支配し、私は動くことも、声を上げる事もできなかった。
「もう一度言う・・・。離せと言っているのだ!」
父の声が低く震えていた。苛立ちか、それとも、怒りか・・・。それは、父の、主としての最後通牒だった。
「離しません!」
父の厳命を、お前は再び強く拒絶した。父を深く敬い、いつも忠実に従ってきたお前が、命令に従うどころか、父の腕を更にねじり上げる。父の皺を刻んだ額に、脂汗が滲みでた。
「では、お前も切る!!」
「結構!!」
父の宣戦布告を、お前は堂々と受けて立つ。次の瞬間、父の喉元に短剣が突きつけられた。お前の手にある短剣の、その特徴的な刃形、柄の細工に、我が目を疑った。祖父が父に与え、幾度となく戦場へ携えたという短剣だった。幼い日、その壮絶なまでの美しさに魅せられて、幾度も父にねだった。だが、ついに父は私に与えてくれなかった。その短剣を、父はお前に与えたと言うのか・・・?父とお前との間には、私の知らない絆があったというのか・・・?
細められたただ一つの黒い瞳は、冷酷な決意を宿していた。父の急所を狙う構えには、一分の隙もなかった。
穏やかで優しい幼馴染の、全く別の顔がそこにあった。男とは、こんなにも冷酷になれるものなのか・・・?
父の耳元で、お前が低く囁く。
「けれどその前に旦那様、あなたを刺し、オスカルを連れて逃げます・・・。」
まるで凍りついたように、二人は動きを止めた。静まりかえった部屋に、時計の鉦が鳴り渡る。まるで私に選択の時が来た事を告げるかのように。
お前は・・・、それほどまでに・・・、私を・・・・?!主殺しの大罪を犯すことも厭わないほどに・・・、私の命を惜しんでくれるのか?
ひたすら父の背を追い掛け、望まれる「息子」たらんとした日々があった。どんなに望んでも、どんなに願っても、私は「男」にはなれなかった。私が本当の男だったら、この世界は、全く別のものだったかもしれない。
家の名誉の為に、己の感情を封ずる事ができたのかもしれない。だが・・・、私にはそれができない。力弱き者達の声が、私の心を捉え揺さぶる。その声は、私自身のものでもあるのだから。
ああ!そうなのだ。お前こそ、私の導きの星!あの初夏の日から、私の傍にお前がいて、私が「私」である事を認めてくれた。私が、「私」である事を、望んでくれた。だから、今、私はここに生きている。父を、母を、全てを捨てる事になっても、お前がいてくれるなら、私は・・・。
《続く》
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