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ベルSS

ベルサイユのばら 原作の隙間埋め妄想

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驟雨のあと(8)

月曜日の朝、はたして議事堂の封鎖が解かれることはなかった。議事堂の前に集まった議員達は、当然のように球戯場の講堂を目指した。そして、頼みとするその場所が、アルトワ伯によって押さえられていることを知る。

議員達は、球戯場からほど近いフランシスコ派の修道院の門を叩いた。しかし、修道僧たちは静かな生活を脅かされる事を恐れ、彼らを招き入れることをしなかった。私の立場では、議員達が留まれる場所を確保することもできず、ただ、彼らとともにあり、遠巻きに見守ることしかできないのだ。

平民議員達が最後の望みをかけ目指したのは、サン・ルイ教会だった。聖堂内での討議が許されなくても、教会前には広場がある。重要なのは開かれる場所ではなく、議論の内容なのだと、議員の誰もが信じていた。屋外で立ったままの議論さえ覚悟していた彼らに、思いがけない救いの手が差し伸べられた。平民議員との合流を決めた僧侶議員達が、彼らを聖堂内へと招き入れたのだ。

広場の要所に隊員を配置し、私は側廊の隅で討議の行方を見守った。僧侶議員達は、最初こそぎこちなく内陣に集まって平民議員達の討議の行方をうかがっていた。しかし、やがて彼らは自らその場所を離れ、議場となった身廊へと席を移した。

質素な服を纏った平民議員と、墨染の衣を纏った僧侶議員達の頭上に、透明な光が降り注いでいた。集う議員達の顔は、素朴な喜びにあふれていた。身分は違っても、彼らの望みが1つである事は明白だった。混迷する祖国を救い、貧しい人々に人として生きる希望と喜びを与えたい・・・。

1人の議員がその演説の終わりに、感極まって叫んだ。

「宗教の殿堂が、今や祖国の殿堂となったのだ!」


その言葉に割れんばかりの拍手が沸き起こった。拍手の音は聖堂内に鳴り響き、天井から下がるシャンデリアさえ震わせる。神が定めたとされる身分の垣を越えて、手を繋ごうとする者達の頭上に、天の祝福のように光の粒が降り注いでいた。私はその様を、確かにこの目で見たのだ・・・。


終業を告げる鐘が鳴り響き、傾いた日差しが聖堂の陰を淡く落とす広場に、議員たちは散っていく。今日一日の実りに満足したかのように、彼らの後ろ姿派は力強く自信に満ちていた。

教会の階段を下りていくと、広場の警護にあたっていた隊員達が、すでに整列を終えて待っていた。

「明日にも、議場封鎖が解かれ、御前会議が開かれるかもしれない。早朝に集合がかかっても対応できるよう、油断なく準備しておくように。私はこのまま屋敷に戻る。議場封鎖解除の命令が出たら、遅くても必ず屋敷に伝令をよこしてくれたまえ。」

小隊長に指示を出し、隊舎に戻る彼らを見送った。見上げた西の空は、急速に灰色の雲に覆われていく。広場に湿った風が吹き始めていた。

「オスカル!雨が来そうだ。急ごう!」

馬を牽いて来たアンドレに促され、屋敷へと急いだ。


追いかけてきた雨に、屋敷の門でつかまった。土砂降りの中、駆け込んだのは母屋ではなく厩舎だった。馬もろともに、私達は濡れ鼠になっていた。

「なぜ玄関に直接馬をつけないんだ!この雨は当分止まないぞ。せめて髪だけは拭いておけよ!」

アンドレは、棚からリネンを取り出すと、怒った様に投げてよこした。

「ルミエールの様子を見たかったんだ。私の名付け子だからな。」

髪から滴る水をふき取りながら、悪びれもせず答えると、仕方ない奴だとでも言いたげにお前は肩をすくめ、馬達の馬具を外しにかかった。馬達の世話をかいがいしく焼いているアンドレの気配を背中に感じながら、私は奥まった馬房の横木に腕を掛け、子馬の姿を飽かず眺めた。

遅い春に生まれた純白の子馬に、ルミエールと名付けたのは私だった。母馬のネージュは、初めて迎える出産に怯えていた。夜半に産気づいたものの、腹の中で育ちすぎた子はなかなか産まれて来ず、母子ともども命が危ぶまれた酷い難産だった。ジャンとアンドレが必死になって介助して、子馬が生まれ落ちた時には、東の空が薔薇色の朝焼けに染まっていた。

あの日、血のように赤い夕焼けの中で、私は足を折った愛馬の命の炎が消えていくのをただ見ているしかなかった。澄んだ曙の光のなか、まだ乾ききらぬ身体を必死で起こし、白い子馬は立ち上がろうとしている。何度もよろけ、倒れそうになりながら、ついに、まだか細いその足で地面を踏みしめ立ち上がったとき、私はそこに、確かな命の光を感じた。

子馬に自ら名を付けたいと言ったとき、皆が酷くいぶかしがった。私は多くの馬を愛してきたが、一度として自分で名付ける事はなかったからだ。子馬に「ルミエール」の名を与えた時、皆は更に驚いた。その名は、私の前で話す事が禁忌ともなっている名前だった。愛馬の死、それも父親の手で薬殺されるという壮絶な光景を目の当たりにした経験は、まだ子供だった私にとって、心を深く傷つけるものだったからだ。

子馬はたっぷりと敷かれた藁の上で気持ちよさそうにうずくまり寝息を立てている。日に日にしっかりとして行く様子が見て取れ、思わず頬が緩む。均整の取れた伸びやかな四肢は、将来素晴らしい馬となる事が容易に想像できた。私は、愛らしい子馬をしばらくながめた後、そっと柱の陰に隠れるようにして、アンドレの姿に目をやった。

彼は上着を脱いで、忙しく働いていた。濡れたシャツが肌に張りつき、男らしいシルエットをそのままみせている。カンテラの柔らかな光の下で、腕を伸ばし馬の背を拭う動作に、背中の筋肉が動いているが、はっきりと見てとれた。馬達に優しく声をかけながら、無駄のない動きで濡れた馬体を拭き上げていく。まくり上げた袖からのぞく腕や、濡れた髪をかき揚げた拍子にのぞいた首筋から、目がはせなくなる。抱きしめられた時のすっぼりと包み込まれるような感覚と、首筋に鼻先を埋めたときの日向臭い彼の髪の匂いが鮮やかに蘇り、胸苦しくなった。身体の芯からざわめきとともに切なく甘い何かが沸き上がる。雨が染みわたった軍服は身体の熱を奪っていくのに、身体が自ら熱を帯びていくのがわかる。膝の力が緩み、思わず柱にしがみついていた。自分の身体になにがおこっているのかわからない。言い表す言葉を知らない感覚に、翻弄される・・・。

突然、胸の奥に軋むような痛みが走り、むせるような咳の発作に襲われた。

「身体が冷えてしまったな。大丈夫か?ごめんな。気が効かなくて・・・。」

走り寄ってきた幼馴染は、柱にしがみつく私の体にブランケットをかけると、咳の止まらない私の背を優しくさすってくれた。肩を包み、背中をゆっくりと上下していく大きな手の感触に、咳の息ぐるしさと、お前の変わらぬ優しさに、思わず涙が滲んでくる。

「オスカル、もう気がすんだろう?少し雨脚が弱くなっている今のうちに戻ろう・・・。」

ブランケットに包れたまま、肩を抱かれ、まだ止まぬ雨のなかを歩きだした。雨は幾分小ぶりになっていたが、渦を巻くような風が吹いていた。道の半ばで、カンテラの炎が風にあおられ消えてしまった。突然暗闇に閉ざされ、思わず足が止まる。雨の中、母屋の明かりはかろうじて見えていたが、足元は全く見えなくなってしまった。

「真っ暗だな・・・。」

「大丈夫だよ。俺には慣れた道さ。目をつぶっていたって行きつける。お前は、屋敷の明かりを見ていればいい。」

肩に添えられた手に力が込められ、そっと歩を促された。言葉の通り、暗闇のなか、少しの迷いもなくお前はあるきはじめる。風雨の音と、足音と、お前の息使いだけが、聞こえていた。私は闇の中に浮かぶ光だけを見つめ歩いた。頬を伝う雨の滴は、なぜか、温かかった・・・。

 ★ ジュール・ミシュレ著「フランス革命史」中公文庫版 を参考にしています

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驟雨のあと(7)

連隊本部に高位の者の姿はほとんどなかった。このところ上層部の意向にそぐわぬ態度ばかりをとっている私にとって、それはかえって都合がよかった。

バスケットに上物のワインとちょっとしたつまみの物を準備させ、司令本部きっての情報屋と噂されている男の元へ、アンドレを使いにだした。男は庶務の書記官で、これと言って目立った仕事をしている訳ではないが、司令本部の気になる動きをなぜだか良く知っている。近衛の頃からアンドレは、時々この男から情報をとっていたようだった。アンドレに言わせると、聞き上手な上になかなか機知に富んだ面白い男らしい。情報は時に生物のようだ。まるで意思を持つもののように、何もせずとも勝手に集まる事もあれば、必死に追いかけても徒労に終わる事もある。なんにせよ、状況を掴まぬ事には対応もできはしない。実務方からの情報集めはアンドレにまかせ、私は宮廷の動向や軍に出された指示を注意深く確認し、要人達の動きを探ることにした。

アンドレと私がそれぞれ集め、持ち寄った情報から分かった事、それは月曜日には我々が封鎖した議場の扉が開くことはない、という事だった。昨日の球戯場での出来事が、国王陛下に伝えられたのは狩りの最中だったという。日々の日課になさっていた狩りのさなかに伝えられたこの知らせが、国王陛下を大いに苛立たせた事は想像に難くなかった。マルリーにはパリ高等法院の使節団や教会権力を牛耳る者達が押し掛け、それぞれの思惑をあからさまに主張しあったようだ。結局マルリーでは事態打開の糸口を見つける事ができず、諮問会議はベルサイユに場所を移し、今日も行われている。

「アルトワ伯が、球戯場の講堂を一週間借り切ったそうだ。」

アンドレが言った一言は、私を酷く不快にさせた。明日の朝、議員たちは再び彼らを受け入れてくれる場所を探さねばならないのか。道に溢れ往くべき場所を探す議員の群こそが、今のこの国の姿を如実にしめしているように思えてならなかった。

予定されていた打ち合わせが無いならば、屋敷に戻り体を休めるべきだとアンドレは主張する。だが、私は屋敷に戻りたくなかった。屋敷に戻れば、幼なじみは軍服をお仕着せに着替え、忠実な使用人として忙しく立ち働くことになるだろう。つまりは、私は彼を傍に置く事が出来なくなるのだ。

「今日は安息日だ。ミサに与ることはできずとも、信徒としての務めを果たすべきではないか?サン・ルイ教会に寄って行く。」

キリスト者として当然の主張に、幼馴染とて反論できる訳はなかった。 先王によっていずれは大司教座となるべく建立されたサン・ルイ教会は、奇しくも現国王ルイ・オーギュスト様がこの世に生を受けたまさに翌日、献堂の儀式が国王臨席のもと執り行われた。ジャック・アルドゥアン・マンサール・ド・サゴーヌの手による美しい教会は、ベルサイユにおけるジャルジェ家の所属教会だった。

「王の菜園を抜けて行こう。近道だ。」

私の提案に、彼は小さく肩をすくめると黙って従った。朝から空に低くかかっていた雲が切れ、夏の空が薄い雲を透かせて見えている。菜園には人影はなく、馬の脚を止めて耳を澄ますと、吹きわたる風に作物達が葉を揺らす微かな音が聞こえた。

ルイ14世がジャン・バティスト・ド・ラ・カンティニに命じて作らせた菜園は、宮殿の南西に広がっている。そこでは宮殿の厨房で使われる様々な珍しい野菜や果実が生産されていた。パルマンティエ氏の普及活動によって、今ではじゃがいもも栽培されている。人の意図に従わされた緑ではなく、人と自然とが手を取り合って実りをもたらす緑がここにはあった。王の菜園では、三月に莓を、六月にメロンを収穫することができる。惜しみなくつぎ込まれた技術と人の手とが、それを可能にしたのだ。人の力が自然の力を引き出す様を目の当たりにし、人の英知と自然との調和こそが豊かな富をもたらすのだと深く得心する。

だが、今それが実現されているのは、塀に囲まれた僅かな空間の中だけだ。古い習慣に縛られ、新しい技術を学ぶ機会も与えられず、天候に命運を左右される農民たちの暮らしを、この国の為政者たちはなんら省みてこなかった。フランスは、このままではたちゆかなくなる・・・。人々を縛り続けてきたものを突き崩さなければ。

見渡した緑の向こうに、サン・ルイ教会の美しいドームが見えた。雲の間からまるでレースのリボンのように広がる光に、頂上の十字架が照らされて柔らかく光っている。

「フランスの大地が、この菜園の様に、人の知恵と自然の恵みによって、あまねく豊かな実りを結ぶ日がくるのだろうか・・・。」

溜め息まじりにつぶやいた私に、幼馴染は微笑を浮かべながら広がる畑の一角を指示した。

「あれが、答えだよ。諦めなければ、いつか願いは叶うんだ。」

濃い緑の畝に、小さな紫色の星々が揺れていた。家畜の餌と蔑まれていたじゃがいもが、今はこうして王の菜園で大切に育てられている。

「ムッシュ・パルマンティエは元気にしているかな。」

懐かしそうに、お前の隻眼が細められる。

「あの御仁の事だ、相変わらずだろうさ。」

「違いない!」

エネルギッシュな赤ら顔を思い浮かべて顔を見合わせれば、互いの頬に笑いが溢れ出る。

成すべき事、目指すべき場所、心の中に誰もが抱いている希望・・・。

「信徒としての務めを果たしたら、屋敷にまっすぐ戻ろう。たまには、お前も神がお定めになった「安息」を守るべきじゃないのかな?」

「ああ、そうだな。」

気遣いを含んだお前の言葉に、素直にうなずいている自分が少しこそばゆい。

菜園の門を出れば、道を隔てすぐにサン・ルイ教会の白い外壁が眼前に現れる。昼のミサと夕刻のミサのちょうど狭間の時間で、教会前の広場は閑散としていた。ドリス式とイオニア式の列柱と、金色の飾りが取り付けられた青い扉が配された白いファサードは、いつ見ても優美だと思う。マリー・レグザンスカ様に配慮されたのだろうか、塔の上の特徴的なドームは、どこか東欧の香りがする。

左手の扉から聖堂内に入ると、突然頭上からオルガンの音が降ってきた。最近年若い奏者に変わったばかりだと聞いていた。ミサの合間に練習をしているのだろう。ルイ・アレクサンドル・クリコが腕を振るったオルガンは、王室礼拝堂に据えられたものにも並ぶ素晴らしい音色だった。拝廊に置かれた貝殻を模した大理石の聖水盤に指を浸し、十字をきって身廊に進んだ。名器を知りつくした前任者の円熟した音色とは違う、固さを残しながらも瑞々しい音色が聖堂に響き渡る。

透明なガラス窓に光は弱められることなく聖堂内に導かれ、白く清浄な空間を作りだしていた。私はここで洗礼を授けられ、堅信礼を受けた。女児に男名を授け男として育てるという事は、神の教えに背くものとして退けられても当然だった。この教会がそれを許したのは、先王夫妻の篤い寵愛を受けた父将軍が、私を跡継ぎとして育てるという企て以外は、常に正しいキリスト者として行動していたからだろう。そして、教会に相当の寄進をした事も想像に難くなかった。今でも、父はこの教会に多額の寄進をし続けている。

聖王ルイの十字軍遠征に従い、その恩賞によってジャルジェ家はアラスの領地を封じられた。以来、諸国の抗争の地ともなってきたアラスの領地を、ジャルジェ家は代々守り続けてきた。繰り返し言い聞かされて来たのは、領主と領民の信頼関係の重要性だった。領民の生活を護ってこその領主であり、領民と領地の安寧を保障する力が有るからこそ、領内において権力を行使することができる。領民が租税や使役を受け入れるのは、領主がそれに見合う善政を行うからなのだと教えられた。高貴なる義務を背負う名誉と光栄を、ジャルジェ家は神から与えられたことを忘れてはならないとも・・・。

ジャルジェ家は軍を統べる帯剣貴族でありながら、父将軍はついに男子を得る事ができなかった。父も祖父も曾祖父も、唯一の男子としてジャルジェ家の血脈を守ってきた。肖像に描かれた先祖達は皆、私と同じ濃い青の瞳と見事な黄金色の髪をしている。私が生まれた時、余りに濃くジャルジェの血を受け継いでいる事を惜しみ、父が私を男子として育てることにしたのだと、伯母達が溜め息まじりに言うのを何度も聞いた。国王陛下の特別なはからいによって、私は女伯爵として父の領地を継ぐ事をゆるされていた。私自身が、当主として父の跡を継ぐ事になんら疑問は無かった。

姉達はみな15歳になるやならずで、両親が決めた男性の元へと嫁いでいった。それなのに、私自身はいつか誰かと結婚するのだと考えた事は、一度もなかった。フェルゼン伯に恋をしていた時でさえ、彼と結婚したいと願った事はなかった。例えこの体が女であったとしても、男として育ち、自らの意思と努力で軍人として今の地位を得たのだ。結婚によって、自分自身を規定しなおさねばならなくなる事を、私は恐れていた。自らを女とする事は、すなわち、幼いころから必死で築きあげて来た軍人としての人生を、全て失う事なのだ。

女に生まれたのでなければ、私は恐らく父と同じように、両親が選んだ女性を愛し、子を成したのだろう。近衛隊を率い、なんの疑問も持つ事無く王家を守り続けて・・・。女に生まれ、男として生きて来たがゆえに、私はそのどちらにもなりきれない。私は、私以外の何者にもなる事ができない。女でもなく、男でもない。そして、女でもあり、男でもある、この「私」という存在を、いったい誰が受け入れられるだろう・・・・。


後陣の高窓から、午後の柔らかな光が降り注いでいた。パリのカテドラルや、サントシャペルの煌めく宝石のようなステンドグラスはここにない。透明度の高いガラスは、太陽の光を遮る事も弱める事なく、そのままに堂内に導いていた。色の無い光の中にこそ、人々はあらゆる色を見出し、主の栄光を感じるだろう。

主祭壇には溢れんばかりの白百合が、薔薇色の大理石の花瓶に飾られていた。奥に安置された聖母子像が、静かに私たちを見下ろしている。アンドレは祭壇の前に膝を着き、低く祈祷の言葉を唱え始めた。私は彼の脇に並んで膝まづく。いつの間にかオルガンの音は止んでいた。淀みなく紡がれる祈りの言葉が、静かな聖堂に流れ、そして消えて行く。低く暖かな声音にじっと耳を傾けながら、私は頭を垂れて祈った。

突然鳴り響いたオルガンの音に、私は我に返った。地の底から湧き出るような低音と繊細な高音の旋律が、緻密に絡み合いながら、聖堂内を満たし、私の体を包んでいく。立ち上がった私は、軽いめまいに襲われた。目の前が白くかすみ、オルガンの音が耳の奥で揺らめき始める。歪む視界の中に、様々な人の姿が浮かんでは消えていく。問いかけるような眼差しが、私を見つめる・・・。

「オスカル!」

声を掛けられ、我に返った時には、オルガンの音は消えていた。

「どうした?ぼんやりして・・・。」

心配そうにのぞきこむお前の顔が、目の前にあった。

暖かな黒い瞳に私の顔が映っている・・・。ただそれだけの事なのに、胸の奥底に暖かい水があふれてくる。

「何でもない・・・。百合の香りに酔ったのかもしれない・・・。」

私はそう答えるのが精一杯だった。



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驟雨のあと(6)

ショットグラスに注いだ褐色の液体を、ランプの光が照らしていた。もう何杯目になるだろう。香りも味もすでにどうでも良かった。喉を焼く酒精の力でこの苦しみから逃れたい。

わからな・・・い・・・。
なぜあのように燃えることができる・・・・・・?

ふまれても、ふまれても、
なぜ彼らはあのように力強く燃え上がれる・・・?

一番力弱き身分であるはずの彼らが・・・!


球戯場の講堂は、天井こそ高く奥行きはたっぷりとあったが、剥き出しの壁は手入れもされず汚れていた。鉄格子の嵌った大窓が、かろうじて採光を確保していたが、いくつかのみすぼらしい木の椅子が備え付けられているだけの、倉庫と見紛うほどの貧しい空間だった。議員達はその空間を埋め尽くし、立ったままで討議したのだ。

若者達は濡れるのも構わず大窓によじ登り、鉄格子に張りつくように講堂の中で行われている討議の様子を、見上げる人々に大声で伝え続けた。

議長バイイ、シエイエス、パルナーヴらによって起草された宣誓文が採択された。

いかなる場所に集まる事を余儀なくされようと、国民議会は、議員の集まる場所に存在する。審議の続行をなにものもさまたげることはできない。憲法が制定されるまで、議会は断じて解散しないことを誓う。

*ジュール・ミシュレ著「フランス革命史」(上)中公文庫P111より引用

議長バイイが先頭を切って宣誓を行った。彼の朗々たる声は、戸外にひしめく人々の耳にも届き、狭い道に熱い歓声がこだまする。

雨雲はいつの間にか過ぎ去り、雲間から漏れだす光が大窓を照らしていた。




「お前ら大貴族から見ると、虫ケラみたいなもんだろうぜ。だがな、覚えておけ!虫ケラでも生きているぞ!ちゃんと人生があるんだ!!」

「小さな弟が生まれて初めての靴を履いて、石畳の上を嬉しそうに跳ねまわったのを、俺は見た!牢獄にぶち込まれたって俺は後悔なんかしねえ!」

天から降り注ぐ光は、万民を等しく照らす。強き者も、弱き者も、分け隔てなく。踏まれても、踏まれても天を目指し伸びる麦のように、高らかに歌いながら舞い上がる雲雀のように、人は明日を信じて生きる事を望む。その切なる望みを阻むものとは、一体なんなのだろう・・・。

同じフランスに生まれたのに、私は彼らの苦しみを何一つ知らなかった。
彼らの苦しみを知ってもなお、私は何もできない・・・・。

この世界は変えられないのか?
矛盾に満ちたこの世界を、人は変えてはいけないのか・・・?

怒涛のように押し寄せる人々の激情に圧倒され、矛盾に満ちた現状を打ち壊したいという人々の願いに、立ちすくみながらもどうしょうもなく魅かれて行く自分がいる。


お前の顔が見たい。
お前の温もりに触れたい。
今の私を、お前はどう思っているのだろう・・・。

「いつまでも、一緒にいよう。だって、僕は君が大好きなんだもの!」

あの頃は互いを見つめ合う眼差しと繋いだ手の温もりの他に、互いを求める理由など何も要らなかった。ありのままの存在が、ただ愛おしくて・・・・。


トン・トン・・・トン

聞き慣れたリズムで扉が叩かれた気がした。コンソールの上に置かれた時計を見れば、もう日付はとうに変わっている。こんな夜更けにまさかと思いつつ、微かな期待を胸に扉を開けた。

廊下は深い闇だった。その中でぽつりと小さな明かりに照らされた大小の人影があった。

「オスカル様、もう遅うございます。お休みになられませんと、お体に障りますよ。」

溜め息まじりの言葉には、小さな子供の不始末を咎めるような響きがあった。

「寝酒はもう十分だろう?いい加減に寝たらどうだ?」

アンリエッタの気遣わしげな声に追い打ちをかけるように、不機嫌そうな低い声が聞こえた。半ばはだけたシャツに、前が開いたままのジレが、すでに休もうとしていた彼がアンリエッタに強引に連れて来られた事が見て取れた。会いたかったはずなのに、生来の負けん気がむくむくと頭をもたげてしまう。

「二人とも良いところに来たな。せっかくだ、一杯進呈しよう。上物のアルマニャックだぞ。」

私はことさらに陽気なそぶりで二人を部屋に招き入れ、キャビネットからグラスを取りだすとテーブルに並べた。瓶の栓を開けグラスに注ごうとした時、いきなり手首が掴まれ、瓶が取り上げられた。

「なっ・・・!」

とっさの事に、腕を振り払う隙もなく、酒瓶はアンリエッタの手に渡り、私が並べたショットグラスは、素早くキャビネットに戻された。テーブルの上には、ポツリと飲みかけの私のグラスだけが残され、ランプの光を照り返していた。

「いったい何時だと思っているんだ。明日は安息日といっても、午後には月曜日に再開されるはずの議会警備の打ち合わせがあるだろう。もう、寝ろ!少しでも体を休めろ!」

お前の苛立ちのなかに、私への労わりが透けて見える。だが、それがかえって私の意地を刺激する。

「これくらいの酒で、この私が仕事に支障をきたすとでも思うのか?」

「ああ、うわばみと名高いお前の事だからな、意地でも仕事に支障をきたすような事はないだろうさ。だがな、最近のお前は飲み過ぎだ。健康に問題が出てからでは遅いのだぞ。」

お前こそ疲れているのだ。私の事などかまわず捨て置けば良いものを。

「私の事は私が決める!お前に指図される筋合いなどない。」

乱暴に言い放った私の言葉に、お前は気まずげに眼をそらした。

焼きついたように手首にお前の手の感触が残っている。

眠れないんだ・・・。
頭の芯が冷たく冴えて。
私はどんどん分からなくなっていく。
貴族とはなんだ?
男とは?
女とは?
人間とは?

昔のようにお前はお前だよと言って、私の手を握ってくれないか・・・。
そうしたら、私は自分を取り戻せる気がする。

心の声が漏れだしてしまわぬようにと、私は右の手首を左手で強く握りしめた。

「俺がおまえに意見できる立場じゃないことはわかっている。だが、これだけは言わせて欲しい。最近のお前の酒量は、度を越している。心配しているんだ。奥様もおばあちゃんも、他の皆も。」

目をそらしたまま、お前は私を宥めるように言った。言われるまでもなく心配を掛けている事はわかっている。それでも、酒より他にすがるものがなかった。

「自分の酒量ぐらい分かっている。興ざめだ。寝る!」

グラスに残ったアルマニャックをぐいと喉に流し込み、踵を返して寝室に向かった。

「眠りつくまでアンリエッタについていて貰うといい。1人でいてはいけない夜もある・・・。」

背中に掛けられた言葉に、声にならない願いを返す。

お前にいて欲しい。

私が声に出して望めば、お前はきっと私の願いを聞き届けてくれるに違いない。
だが、私はお前が封印してしまった願いを知っている。
闇の中で抱きしめられて、唐突に告げられたお前の思い。
私には、まだお前が求めるものを与える勇気がない。
私の我儘を満たそうとすれば、お前を苦しめ傷つけるだけだ・・・
自分自身の願いを一度でも口にしてしまえば、私はもう押さえがきかなくなってしまうだろう!
それが、恐ろしい・・・。




朝日が私を起こさぬようにと、アンリエッタが寝台の帳を下ろしていったせいだろう。目覚めた時には、すでに日は高く昇っていた。帳で籠った熱気のせいなのか、寝汗でじっとりと体が湿っていて不快だった。顔に張りついた髪を乱暴に払いのけ、額に腕を載せると、心なしか額が熱っぽい気がした。目覚めたものの、体はまだ休息を欲している。瞼を閉じてしまえば、再び眠りの淵に引き込ずり込まれそうだ。いつもより長い眠りを取ったはずなのに、倦怠感が全身を覆っている。昨夜の深酒だけが理由ではないだろう。気がつくと、乾いた咳がでていた。息を整えようと深呼吸をすると胸の奥に軋むような痛みが走った。日々蓄積されていく疲労に体は悲鳴を上げている。だが、それをどこか他人事のように受け止めている自分がいる。休みたいという体の欲望に素直に身を任せられるほど、私は楽観主義者になれなかった。世情はいよいよ難しい局面へと向かっている。

休息への未練を断ち切るように、帳を開け寝台から下りて、呼び鈴を引いた。身支度を整え、連隊本部へ赴かねばならない。午後の打ち合わせの前に、情報整理が必要だった。

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驟雨のあと(5)

兵士たちはうなだれ、黙々と歩いている。引き伸ばされ、今にも消え入りそうな彼らの影が、地面に揺れていた。

「彼らに労いを手配してくれ。そうだな、ほろ酔いになる程度の酒と、何か腹の足しになる物を頼む。」

「ああ、そう言うと思ったから、食堂に用意させてあるよ。抜け出されて、街の酒場でもめ事になったらやっかいだからな。安全管理費って事で伝票をあげるから、決済を頼むよ。辛い仕事をやり遂げたんだ、連中にご褒美を上げてもいいさ。」

同僚たちの背中に注がれる幼馴染の眼差しは、いつも以上の優しさに満ちている。

「ブイエ将軍への報告は、ダグー大佐の采配にお任せして、もう帰ろう。疲れただろう?」

そう言うお前も、酷く疲れた顔をしていた。促されるままに、帰宅の途についた。馬車の中で、互いに言葉を交わす事もなく、俯いている。二人で馬車に乗る時に、お前が斜向かいの席に着くようになったのは、いつの頃からだろう。

子供の頃は、並んで座るのが常だった。心地よい揺れに身を任せ、たわいのないおしゃべりに興じ、頭を寄せ合って眠り込む事もしばしばだった。お前の心地良さそうな寝息を耳元で聞きながら、うつらうつらと舟を漕ぐ。そのひと時が、今思えば私にとっての幸福そのものだった。昔のようになんの衒いもなくお前の隣に座れたらどんなに良いだろう。お前の肩に頭を預け、安らかな寝息と体温を感じながら、馬車の揺れに身を任せる事ができたなら・・・・。

分かっている。これは私の我儘だ。お前からは私に触れてはくれない。あの日お前は神に誓いを立てた。その誓いをお前が破る事などありはしない。私は、まっすぐにお前を見つめる事ができないでいる。暗く小さなガラス窓に映るお前の姿を見るだけで、胸の奥が波立ってしまうのだから。

**************


ほの暗い浴室にはカモミールの香りが満ちていた。適度な温度に調整された湯に浸かり、目を閉じると、母の胎内に戻ったような安堵を感じる。ゆっくりと両の掌を腕に滑らせ、腕の付け根から胸元へとなで下ろした。皮膚の下には、日々の鍛錬によって作られた筋肉がある。女である事を証す胸乳をそっと掌で包んでみた。生まれのままの身分・性別に従っていたならば、子供どころか孫さえいるかもしれない年齢なのに、それは開く事を拒む蕾のようにつつましく固いままだ。手にするものと言えば繊細な透彫りを施した扇や、赤く薄い舌をチロチロとせわしなく出し入れ愛くるしい生物くらいしかない貴婦人たちの柔らかな体に比べれば、私の体はむしろ市場で働く女たちのそれに近いだろう。力ある者に庇護される事を前提として形作られていく貴婦人達の優美で柔らかな肉体と、自らの命を繋ぐ為に働く女たちの肉体。かけ離れているように見えながら、その本質は同じだ。男ではない者、男と一対となるべきもの・・・。私が女であるならば、対となるべき男を求める事は、ごく自然なことなのかもしれない。では、誰を?


就寝の平安を祈る言葉を残し、アンリエッタは部屋を辞していった。私は部屋に一人になった。まだ少し湿り気の残る髪から、薔薇の香りがほのかに漂っている。寝台の脇のサイドボードの抽斗の奥から、銀の小箱を取りだした。赤いビロードを開くとブルーパールのチョーカーが、あえかに光る。見事に粒のそろった青い真珠を指先でなぞると、ひんやりと滑らかだった。

「オスカル、あなたが本当に人生を託したいと思う男性に出合ったら、その方にこれを首にかけてもらいなさい。あなたは幸せになっていいのですよ。あなたが軍人であり続けたとしても、女性であることを忘れてはいけません。あなたは、誰よりも美しく、優しい、私の愛する娘なのですから。それを忘れないで。」

母の慈愛に満ちた眼差しと言葉が、今も熱く胸を満たす。しかし、母が言うように、人生を誰かに託すなどという事が、果たして私にできるのだろうか?ジャルジェ家の嫡男として、生まれた時から自らの意思と責任において生きる事を求められてきた。不穏な世情を憂い父母が勧めてくれた結婚を、例えそれがジャルジェ家の存続の為であっても、私は受け入れる事が出来なかった。

私には多くの兵士を束ね彼らの命を預かる者としての責任がある。あまたの困難を乗り越え、手にした軍人としての人生を、捨てることなどできるわけがなかった。それに、私の人生は、決して私一人で作ってきたものではない。

常に私の傍に居てくれたお前無くして、どうして私が今の私たりえただろう。いつだって、お前に恥じない生き方がしたかった。他の誰よりも、お前に傍にいて欲しい。私が私で在る為に、お前が必要なんだ。

青い粒をなぞるのは、白く細い女の指先。

お前に抱きしめられたい。出会いの日、髪に絡んだ花弁や葉を取り除いてくれたように、優しくこの髪を梳かれたい。朝な夕なに交した優しい触れ合いを再び取り戻し、そして、私もお前を抱きしめ、柔らかな巻き毛に指を絡め、暖かくしっとりとした唇にくちづけたい。寄り添って体温を分けあい、お前の瞳の中に微笑む自分の顔を見つける喜びが欲しいのだ。

私の人生をお前に託す事はできない。なぜなら、すでに私達はお互いを支え合いながら、共に生きてきた。そして、これからも・・・・。

「いつまでも、一緒だよ。」

薔薇園の葉陰で交した幼い約束を、永遠のものとする為に、私とお前が新たな約束を結ぶ時が来る。この首飾りは、その印となるだろう。

知らぬ間に、涙が頬を濡らしていた。

「彼を愛しているのですか・・・?」

ジェローデル、今なら、君の問いに私は答えられる。
私は、アンドレ・グランディエを愛している。



************


重く垂れ込めた雲から今にも雨粒がおちて来そうな嫌な空模様だった。

昨日封鎖した会議場の警備にどの班を当てるべきか、頭を悩ませながら隊舎に向かう。平民主体の構成だからこそ、衛兵隊への風当たりが強くなるのは必至なのだ。同族に対する裏切りは、敵に与えられる屈辱よりも更に深い憎しみを産む。昨日の民衆の怒り様を考えると、無用な挑発を招かぬ為に、今日は近衛による警護が望ましかった。日頃から折り合いの悪い上司を説得し、さらに古巣とは言え、指揮をとる元婚約者に無理を言うのは気が重い。今日のローテーションの中で抑えが効きそうな班をあげてはみるが、彼らにまた昨日の様な仕打ちがなされると思うと、忍びなかった。やはり自ら上官のもとに出向き説得するしかないと、馬車を降りた時には、腹をくくった。

ところが、司令官室に着くとすぐにやってきたダグー大佐が告げた言葉は、全く意外なものだった。

「今日の議場警護は、近衛隊が当たるそうでございます。衛兵隊は市中巡回を怠らぬようにと、先ほど総司令本部から伝令が参りました。」

気がかりがあっけなく解決し、ほっとすると同時に、この決定がなされた裏になにがあるのかと不安にもなる。

「昨日の今日だ。正直言って、ありがたい。だが、どうしてそのような決定がなされたのか、解せないな。どう思われる?ダグー大佐。」

昨日の報告を彼に任せていた。衛兵隊員達の現状に精通している大佐の報告が、なんらかしらの影響を与えたものと思われた。

大佐は、私の質問に一瞬困惑の表情を浮かべ、言い難そうに口をひらいた。

「昨日ブイエ将軍のもとにご報告に伺った際、ちょうど近衛連隊長殿の副官がお見えになっておりました。栗色の髪で、男でも見惚れるほどの美丈夫でしたよ。確か、C中尉とおっしゃる方で・・・。」

副官からの報告を受けたジェローデル少佐が、私情から今日の警備をかってでてくれたとは思わない。治安維持に対する警戒感と状況判断から、彼は進言してくれたのだろう。

「そうか。C中尉は相変わらずの美丈夫ぶりか。彼は見かけ以上に頭が切れる。貴公の報告が意味するところを汲み取り、上官に報告してくれたようだ。偶然に恵まれたにせよ、貴公の的確な報告のおかげだな。」

着任以来、温厚で実直な副官の存在に助けられてきた。様々な個性を集めた集団を御すには、役割分担が必要なのだ。

「グランディエ君の報告があってこそです。いつも簡潔にして十分な情報を、彼はあげてくれますからね。」

ダグー大佐のお前への賛辞に、思わず頬が緩んでしまう。衛兵隊に赴任して以来、当前のようにお前が果たしてきてくれた役割の価値を、改めて痛感する。本当は、ずっと以前からそこに存在していたのに、私が気付かなかったものが何と多くある事だろう。

「議場が封鎖されたと知ったら、議員達は代わりの場所を探すのだろうな。」

議場から歩ける範囲で、平民議員総勢600余人が収容できる場所は数カ所に限られる。立場上こちらからその場所を示唆してやることもできない。私ができる事は、彼らの移動の安全を確保することだけだった。

「左様でございましょう。議場は動きませんが、議員達は場所を求めて動き回る。警護する我々も骨ですな。」

副官は、浮かぬ顔で言った。

「なに、議員達の警護は、我々の本来の任務だ。隊員達の心理的抵抗はないだろう。まずは議場周辺の大人数が収容できる場所をピックアップして情報がとれるように人員の配置をしてくれ。教会、講堂、倉庫、そういった場所に限られるはずだ。短い距離でも数百人が移動する事になれば、一般人や馬車の通行を一時的に制限しなければなるまい。 封鎖班、誘導班、警護班を編成し、すぐに議場前に配置する。二十分後に出発する。アンドレ!大佐の補佐を頼む!」

私の指示に、ダグー大佐とアンドレはあわただしく出て行った。編成を整え議場前に到着した時には、すでに議員達が道に溢れていた。道路に簡易柵を立て、移動に備え議員達と市民とを分離していく。昨日我々が封鎖した入口付近は、武装した近衛隊士達が固めていた。掲示板には、御前会議が22日に開催される事が書かれ、その準備の為に議場を閉鎖する旨の通知文が貼られていた。

朝から低く垂れこめていた雲は、一層厚くなり、湿った風が吹きつけ始めていた。今にも大粒の雨が落ちてきそうだった。つい三日前に国民議会議長に選出されたばかりのジャン=シルヴァン・バイイと有力議員達は、入口付近で空を見上げながら、失った議場の替わりをどうするか、必死で話し合っていた。

「サン・フランソワ通りにある球戯場の講堂はどうだろうか。徒歩15分ほどの距離だし、十分な広さがある。」

ほどなく、パリ選出議員のジョゼフ=イニャス・ギヨタンの提案が採用された。通りに溢れていた議員達が一団となって行列を作りながら球戯場へと移動を開始した。道筋の人々が、口々に彼らへの熱い支持を叫び、後へと続いた。衛兵隊士達は、彼らの通行が円滑に進むように、進路に対し交わる道を封鎖し、議員団に混じろうとする市民達を規制した。粛々と議員達は新たな議場となるべき場所へと向かう。やがて、球戯場に全ての議員が入場し、扉が閉められた。まるでその時を待っていたかのように、大粒の雨が音を立てて降り始めた。


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驟雨のあと(4)

人々は気づき始めている。今まで絶対だと信じ込んでいたものが、自らの手で変える事ができるのだという事を。

神はご自身に似せて一対の男女をお造りになった。我ら人間は、全てが同じ始祖を持つ同胞なのだ。人は神との約束を違え、禁じられた智慧の実を食べた。安寧の地を追われ、男は額に汗して働き、女は血を流し苦しみの中で子供産まねばならなくなった。だが、神は約束を違えた我らが始祖を、滅ぼされなかった。地に満ち神の存在を忘れた遠い祖先たちを、滅ぼそうとなさった時も、箱舟をつくる事をお命じになり、御救いになった。

神のお造りになった世界を知る事を、人は望んで止まない。人にとって、知る事は生きる事そのものだ。智慧の実はすでに完全に人の血肉となって、もはやその業から逃れる術などない。人間が神の御業の全てを知る事は決してできはしない。知ることは時に苦しみともなるのに、人は神の英知を求める事をやめられない。

悠久の時の流れに、1人の人間の人生など、星の瞬きにさえ満たない長さに違いない。人の世は、矛盾に満ち、刹那の人生に愚かしい失敗を犯しても、人が新たな生を生きる事を、神は許して下さるのはなぜなのか。

神は、人を信じてくださっている。神はこの愚かしい生き物を、愛して下さる。愛すればこそ、人が人で在る為に、背負った罪を赦す者として、御子を地上にお遣わしになった。人は神の愛を知り、そして変われる。今、人々はその事に気付き始めている。人は等しく神に作られたものであり、自由であり平等なのだ。

旧体制はもはや瀕死の状態だった。国王陛下と王后陛下は、取り巻き達に勧められるままにマルリーの小離宮に引きこもってしまっていた。統治すべき者が、己が統治すべき国民に背を向けようとしていた。

遠い昔、まだ幼かった私に、父は身を挺して未来の王妃様をお守りするのだと言った。そのためにあらゆる武芸の技を磨く事を私に課した。だが、やがて私は思い知らされる。私が武力でお守りできるのは、お体だけなのだ。私は何度もアントワネット様に諫言してきた。だが、異国で一人過ごされる王妃様の寂しいお気持ちに寄り添って、支えて差し上げる事ができなかった。私は若く頑なで、女でもなく、ましてや男でも無かった。

私は政治的権力に興味を持たず、父もまた、政治権力の中枢の限りなく近くに私を置きながら、その立場を利用し政治と関わる事を、良しとなさらなかった。宮廷内の政治的駆け引きの難しさを、父は嫌というほど味わってきたはずだ。私が清濁併せ飲むような駆け引きができる人間ではない事を、父はよくわかっていたのだろう。

政治から距離をおいていた私が、今、新たな勢力となって、政治を動かそうとする人々の傍に居る。もはや、私は自らの立つべき場所を、選ばざるを得なくなる。私が持つ武力で守るべきものは、守りたいものは、一体なんなのだ?!

第一身分である僧侶議員達の多くは、貧しい人々の暮らしを傍で見て来た司祭達だった。彼らは、第三身分と合流する事にためらいはなかった。司教達は抵抗したが、司祭達が多数を制し、『国民議会』に合流することが可決された。このニュースはすぐにマルリーに伝えられた。


ベルサイユの街に、終業を人々に知らせる教会の鐘が鳴り響いていた。ブイエ将軍からの急使に呼び出され、私は連隊本部へと向かっていた。三部会の膠着状態が、経済にも影響を与えている。困窮を打破してくれると期待していた議会は、いまだ混迷の中にあり、街は苛立っていた。

「ただちに三部会の会議場の入口を閉鎖するように。」

ブイエ将軍は、湯気を上げるカップを手に、まるで晩の食卓に出すワインの銘柄を告げるように私に言った。

「ええっ!?なんとおおせられた・・・?」

「ただちに三部会の会議場の入口を閉鎖するように。国王陛下からのご命令だ、ジャルジェ准将。」

将軍は、事更に国王陛下からのご命令だと強調して言った。

「そ・・・そんな事をしては・・・、議員達が会議場に入れないではありませんか・・・!」

私は、俄かに自身の耳を信じる事が出来なかった。行き詰った国家財政の立て直しを図る為に、国王陛下の御名において、三部会は招集されたはずだった。衛兵隊は、恙無くその議事が進むように、議場を警護してきたのではなかったか・・・?

「さよう!なにやらよからぬたくらみを始めている平民議員どもを締め出す、それが狙いだ。」

ブイエ将軍は、カップの湯気を息で払うと、意地の悪い笑みを浮かべた。

「か・・・彼らは・・・議員達はフランス国民が選挙によって選んだ正当な国民の代表です。そのような侮辱はゆるされません。」

軍隊において、上官の命令に逆らう事は許されない。まして、この命令が、国王陛下から発せられたものであるならば、疑義を示すだけでも反逆の罪に問われかねない。

「わがフランス衛兵隊は議員達を身分のいかんによらず・・・守る役目を仰せつかっていたはずです。」

罪に問われようとも、言わずにはいられなかった。セーブルのカップが、がちゃんと大きな音をたててソーサーに戻された。

「大胆な口をきくようになったな、ジャルジェ准将。自分の身分を忘れたわけではなかろう。」

将軍の染みの浮いたこめかみが青く筋立っている。

「後で報告を聞く。国王陛下のご命令だという事を、忘れるな!」

吐き捨てるように言うと、ブイエ将軍は部屋を出ていった。

「自分の身分を忘れたわけではあるまい。」

ブイエ将軍の言葉に息を飲む。私は貴族だ。この事実は否定できない。武官として私が掌握している武力は、国王陛下から仮託されたものであり、私はその命令に反して行使することはできない。現実が剥きだされ、眼前につきつけられる。


「王宮の飾り人形!」

べルナールの叫びが、なぜあれほどまでに私の心に突き刺さったのか、今ならわかる。
彼の言う通り、私はガラスの箱に入れられた人形だったのだ。自分の力など何もない。

「こんちきしょう!」

膨れ上がる憤りに、いすを蹴り上げた。椅子に当たってどうなるものでもない。壊したいのは、愚かな私だ。机を力一杯叩き、痛みに手が痺れても、この心の痛みに比べれば・・・!

「兵士たちにわたしからこそんな命令を与えろというのか!」

歯を食いしばり堪えても、涙が視界をゆがませる。

「ちきしょう・・・」

背後でドアが開く音がした。振り返ると、お前は黙って部屋を出て行こうとしていた。

「どこへ行くつもりだ?」

「どこへって、日が暮れるまでに作業を終えねばなるまい?第一班の連中と・・・,
第三班を集めておくよ。少し頭を冷やしたら来てくれ。お前が拒否したところで、どうせ誰かがやるんだ。だったら、お前が監督してやった方が、安全だろ?」

肩をすくめて見せたお前は、すぐにドアの向こうへと姿を消した。お前は現実を正しく認識している。私がぐずぐずしているうちに、軽やかに為すべき事を示してくれる。

連隊本部から衛兵隊舎に戻ると、アンドレはすでに兵士達を集め待っていた。

「国王陛下からのご命令により、これより、第一班および第三班は、ロテル・デ・ムニュの入口閉鎖作業を行う。諸君らの安全と市民の安全とを最優先に、速やかに作業を終了させてほしい。」

整列した隊員達に命令を下すと、案の定、第一班班長のアランが食ってかかって来た。

「隊長、あんた、頭がおかしくなったんじゃないか?そんな事をしたら、議員達が会議場に入れなくなるだろうが!」

ブイエ将軍と自分の会話をそのまま見るようだった。アランの血の気の多さは、私といい勝負らしい。

「結果としてはそうなるな。」

「俺達は、大工じゃねえ。俺達の役目は、議員達を、議会を警護する事だろう!なんで、俺らがその議会を閉鎖しなきゃいけない?俺は、嫌なこった。どうしてもやると言うなら、他の班に命令してくれ。俺らはまっぴらごめんだ。」

兵士達は口々にアランに賛同する。ああ全く私だってそう思う。だが、この命令を放棄するわけにはいかない。

「この作業は、本当に議会を守りたいと思う者にしかできない。」

私は、事更に胸を反らし、言い放つ。

「はあ?なに言ってんだ?議場を閉鎖して、議員達を締め出して、それのどこが議会を守る事になるんだよ!」

アランは、呆れたように叫んだ。

「では、アラン、1つ聞きたい。お前は自分の一番大切なものが危険にさらされるかもしれないと分かっていて、他人に任せられるか?」

「馬鹿にするな。手前の大事なもんは、手前が守るのが一番だろうが。なに言ってんだよ。」

「お前ならそう言うだろうと思った。議場閉鎖は我々が行わなければならない。我々がこの命令を拒否したところで、別の部隊が行う事になる。市民達は閉鎖に抵抗を示すに違いない。」

「ああ、そうさ。議員達は選挙で選ばれた正当な代表なんだ。議場を閉鎖するなんざ、手前の顔に手前が唾を吐きつけるようなもんじゃないか!」

「作業に当たる者は、遠慮ない罵声を浴び、作業は危険を伴だろうだろう。もし、市民達が浴びせる罵声に耐えられず、発砲する兵士がいたらどうなる?」

「なっ・・・・!」

アランの顔が一瞬で真剣なものに変わる。彼は察しがいい。

「議場閉鎖をしても、いずれ、再びその扉は開かれる事になるだろう。だが、作業中に市民の挑発に乗り、発砲でもしたらどうなる?暴動になるかもしれない。そうなったら、議場閉鎖どころか、議会そのものが解散させられてしまうかもしれない。」

私の言葉に、兵士達の顔がこわばる。三部会開催の期待が大きかった分、行き場の見えない現状に市民達は苛立ちを深めている。その事を、彼らは日々肌で感じているのだ。

「そんなの嫌だよ。せっかく俺達の代表が、議会で俺達の声を代弁してくれているんだよ。解散なんてさせられない。」

フランソワが、懇願するようにアランの右腕を取り揺すった。

「おっ、おっ、俺も、嫌だ。アッ、アラン俺達なら、我慢できるよ。」

ジャンがアランの左腕に取りすがる。

「議会を守る為に、我々が作業に当たるんだ。私も勿論同行しよう。銃は携行しない。どんな罵声にも耐えろ。議会を守る為に、だ!」


夏の太陽は、沈む事を拒むかのように、兵士たちの陰を長く石畳に張り付けていた。
次第に橙を帯びていく光に、青い軍服がにじんでいく。兵士たちはただ黙々と議場の入口に板を打ち付けていた。その音は道行く市民たちを呼び集め、やがてぐるりと囲んだ彼らが投げつける罵声に、槌音はかき消された。

命じたのは、この私だ。兵士らは私に従っただけだ。そう市民らに告げたところで、なんの言い訳にもなりはない。我々が議場閉鎖を行っているという事実が、彼らの怒りを買っているのだから。


「恥ずかしくないのか?フランス衛兵!!」

「平民議員はお前達の代表でもあるんだぞ!平気なのか!?」

「お前達の手でお前達の代表を穢しているんだぞ!!」

誰に言われるまでも無く、わかっている。だからこそ!

隊員達は俯き、唇を噛んで耐えている。罵倒される屈辱に耐えるのは、誇りがないからではない。彼らは自らの誇りにかけて、この使命をやり抜こうとしている。

「やめろ!兵隊!ひっこめ!」

投げられた石礫が、フランソワに当たった。後ろ頭に当てた彼の細い指の間から血が滲む。駆け寄って、ハンカチを渡すと、こんなのなんでもない、と言わんばかりに彼は笑って見せた。
議会解散を阻止する事と信じて、私に従った兵士達の忍耐が、私を揺さぶる。貧しい暮らしの中、家族の為に徴兵に応じた心優しい若者が、何故、石打たれねばならないのだろう。市民達には見えぬ危機が、彼らには見えている。武力を持つ事の意味を彼らは理解している。

フランスは今まさに存亡の危機なのだ。暴動を起こさせる訳にはいかない。産声を上げたばかりの議会は、まだよちよち歩きの状態だ。人々の暮らしは疲弊しきっている。だからこそ、議会がこの悪弊に満ちた社会を変えてくれると期待し、信じている。だから、守らねばならない。その歩みが確かなものとなるまで。

私は、無力だ・・・・。兵士達の忍耐にすがって、この任務を果たしている。

みじめ・・・だ・・・。祖国の人民に選ばれた代表をこのように私は踏みにじっている・・・。
踏みにじっている・・・。

西の空に太陽が沈んでいく。議場を失った議員達は、どのように行動するのだろう。このまま、諦め屈するのか?それとも、新たなる活路を自らの力で見出していくのか・・・。

鳥たちが黒々とした群れを成してベルサイユの森へと飛んでいくのが見えた。不意に、何かとてつもない大きな力が動き始める予感が、私を襲った・・・・。

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